公と共と私たち
私の「ユニークネス」が公共性を支えている 私と公共をつなぐ「もの」 (4/4)
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閉じきれない内部

それは面白いお話ですね。最初期に住民投票が行われた岐阜県御嵩町では、大きな産業廃棄物処分場を作る場所が木曽川の上流に計画されて、木曽川を汚染するおそれがあると見られていました。住民たちは木曽川の水を飲まないけれど、下流域の汚染を避けるために、処分場建設の是非について住民投票を行いました。その際、外国籍住民の投票権が問題となったと聞きました。その住民はかつて石炭を掘るために徴用された人たちとその子孫と見られます。そのように、あらゆる「もの」は歴史を帯びていたり、現在の誰が関わり、誰が関われないかの結節点にもなっていきます。いずれにしても、「もの」は具体的にそこにあったり、具体的なかたちをとって作られるわけですから、否応なく共通の関心事となり、対話を引きだします。

例えば町の問題についても、限られた所の問題であっても、市民全体が関心を持つような面がありますよね。一方では居住空間が分離されたゲイテッドコミュニティのように、内部だけを最適化する関心はあるけれど、外部は打ち捨てられたままでよいという考え方もあります。しかしやはり、神社であれ市営住宅であれ世界遺産であれ、それらとの今後の長い付き合い方を考えていけば、内部最適化にはとどまらない関心が出てくるはずです。

そうした意味で、これらの「もの」が公共的な関心事を引き寄せる媒体になっていくんだと感じます。

齋藤純一

暮らしへのインベストメント

「もの」がコミュニティを媒介する例として、大牟田市の市営住宅もあります。立て替えされて、新しい住宅に移ろうとしていますが、前の市営住宅に住んでいる高齢の住民は勝手に増築したり菜園を作ったりしていて、そこが自分たちの住まいになっていました。その一方で行政の住宅政策は、住む住居を保障するだけで、コミュニティも含めた住まいの観点が抜けていたり、労働力の観点だけから新築の公営住宅を設計したりしています。

しかし住まいを保障しないとリロケーションダメージが起こって、無意識に色々な意欲が減退しますが、それは住居の利便性が高まるだけでは全く補えない部分なんですね。

山内泰

福島でも被災して住む場所が変わった時に、そのようなことが起こりました。私はインベストメント(投資)という言葉で捉えていますが、場所にはやはり、その人なりの投資があるんですね。そこには文化的な投資もあれば社会関係的な資本の投資もあり、景観をつくる投資もありますが、住む場所が変わるとそれがなくなる。その喪失や剥奪は非常に切実だと思っています。福島でも年配の方が戻っても他の人々は戻らないので、かつての場所は取り返せなくなっています。だからこそ、暮らしの場所とは、単なる住む場所ではなくて、人々の思いや営為が蓄積された場所なんですね。

齋藤純一

住宅がそこにある人の生き方を豊かにもするし、そこが揺らぐことで自分自身も揺らぐように、投資の部分が取り返せないような状態になってしまう。

この住宅の例のように、公共的な「もの」の次元がいかに人間の生にとって重要かがよく分かります。

山内泰

その点に関しては、映画の『ニューヨーク公共図書館』や『パブリック: 図書館の奇跡』も印象的でした。アメリカの社会だとパブリック(公共的)なものは、そこから離脱すべきもの・質的に劣った劣化したものという否定的なイメージがまとわりついています。日本の都市部でも公立学校に対して一部にあります。そこから抜け出して、自分たちだけの最適化をやっていっても、やはり人々の間が貧困化していけば、 自分たちにも影響が返ってきます。永遠に自分たちを囲っていくわけにもいかないし、私的に閉じた空間の中で出会える人は所詮限られている。確かにゲイテッドコミュニティは安全で快適かもしれません。けれども、こうした映画がアメリカでも出てきて、シェルターをどうやって運営していくか等に人々の関与を引き付けている事例を見ると、公共的な「もの」が果たしている役割が見直されているように思います。

齋藤純一

公共図書館では、就職するためのスーツを貸す等、人々が生きていくための情報が様々に取得できる。そうした公共的な「もの」の魅力の復権が非常に大事になっていると思えます。本日はありがとうございました。

山内泰
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齋藤純一

早稲田大学政治経済学術院教授(学術院長)
さまざまな人が共に受け入れ、支持できるような制度や規範はどのようなものかを公共哲学の観点から探っています。

山内泰

一般社団法人大牟田未来共創センター理事
ドネルモ代表理事
株式会社ふくしごと取締役
東京大学先端科学技術研究センター特任研究員