公と共と私たち
私の「ユニークネス」が公共性を支えている 私と公共をつなぐ「もの」 (3/4)
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一人ひとりのユニークネスと出会う公共の場

その多様性のお話は、生の共約不可能性という次の論点にとっても重要に思えます。齋藤さんは人間の生命の位相、他者と関わる位相、共約不可能な位相という異なる3つの位相について話されています。特に最後の共約不可能な位相は、アレントの政治的判断やフーコーの自己への配慮の議論との関連も指摘されており、公共性の議論にとっても深い関わりがあるように思います。

そこで齋藤さんが共約不可能な位相と公共性をどのように関連付けておられるか、伺えますか。

山内泰

これについては、アレントの「ユニークネス」という言葉で考えてみましょう。これは特異という意味ではなく、「二つとない」という意味です。アレントは、絶対的で唯一とされる真理に対して、意見の複数性を擁護する際に、「世界は同じ側面を二人の人に対して示すことはない」という印象的な言葉を記しています。共通の世界に関しては、一人ひとりが占めているポジションには、単に空間だけでなく、どのように生きたかという時間的なコンテクストも関わっています。そうすると、その人の観点からしか語られない世界の見え方・開かれ方は、共約される部分は多いにしても、他とは原理的に異なっています。もちろん全ての観点が同等の価値を持つのでなく、取捨選択をもって応じられるとしても、それらはその人の(二つとない)言葉や活動や作品などとして表現されるものです。

アレントの議論の魅力とは、そうしたユニークで、二つとない何かが失われれば、それだけ世界の理解は貧しくなるとした点にあります。それは一人ひとりが世界に占める位置が他にはないものだからです。ですから例えば誰かの発言が継続的に封じられしまうなら、それだけ共通世界の理解は貧しくなっていくわけですね。

例えば萱野茂が編集した『アイヌ語辞典』というものがあって、アイヌの人が世界をどんな言葉で描いたかを見てみると、他にはないユニークな描き方があります。私たちには欠けている世界に対する理解の仕方・見方を示しています。公共的な空間というのは、そのように自分ではないものが自分の前に現れてくる所です。アレントはそれを「出会いの場(meeting place)」とも呼んでいます。つまりそこは自分と異なる他者が言葉や行為を通じて現れてきて、それに応答が返されうる出会いの場所が、アレントの言う公共の場なんですね。

そういう意味で生の共約不可能性とは、個々人が生きてきた軌跡の違いでもあり、それらを十把一絡げに扱うべきではない。一人称で語られるべき何かがあるというという向き合い方が必要になる。これがアレントのいう物語(ストーリーテリング/ナラティブ」です。物語は、どういう世界のあり方がよいかについて議論するコミュニケーションとは違い、その人の苦難や喜びや挫折なども含めて一人称の経験にとくに光を当てる。ナラティブは誰かに代理されうるものでも、ただちに共有されうるものでもなく、それぞれ違った経験や生の軌跡があることをまず受け止める基礎的な対話の次元なんですね。

齋藤純一

ナラティブとは、その人の語りで、他に二つとなく代理されない。そうした様々なユニークネスに出会う場として、公共性が念頭に置かれているわけですね。

山内泰

そうです。公共性は、議論という単一のコミュニケーションモードで成り立つものではありません。もちろん理由を挙げて自分の主張をしたり、エビデンスによって自分の主張を正当化することは公共的なコミュニケーションの基本ですが、それだけで公共性が成り立つわけではないんです。

たとえ過酷なものであっても、その人の経験が語られる時、入れ替え不可能な何かが示される。それも公共的で、私たちの間にあるものを理解するためのコミュニケーションのあり方です。ナラティブといっても誰かが語りを促したり、相槌を打ったりする(相互性の)中で成立するものです。

齋藤純一

他人のユニークネスに自分が出会うことでもあるし、自分のユニークさに他の人が触れることでユニークになるという相互性もあるわけですね。

山内泰

あらかじめユニークな何かがあるのではなくて、自分が語った言葉がどう受け取られるか、共有できることやできないことがある中で、自分と相手との違いも際立ち、共通項に回収されずに残っていく。それは決して特別な何かではなく、普通のコミュニケーションの中でも起こっていることです。

これは違いの相互享受にも通じる話で、例えば音楽でもスポーツでもよいですが、自分にはどうやっても実現できないものが他者によって実現されることがあります。そうした「素晴らしい」という評価を、アレントは「グレート」と表現しています。自分にはおよそ不可能なものが、他者の言葉やパフォーマンスに示される。アレントは公共的な空間を「劇場的」とも言いますが、そこには私(たち)でないものが立ち現れているんです。それらに対しては、道徳的な正当性や生き方の良し悪しという意味での評価はなじまなくて、やはり「グレート」という評価がふさわしい。そうした美的な経験に晩年のアレントは関心を寄せました。

齋藤純一

「もの」が媒介する公共性 人々の間を切り離し、結び付ける「もの」

個人と公共性を媒介する「もの」の次元

ここまで個人の生のユニークさや親密圏と公共性の間にある繋がりやせめぎ合いについて伺ってきました。そこで最後の論点では、その一人ひとりと公共性を繋ぐ公共的な「もの」の次元について伺おうと思います。

齋藤さんは論文の中で、公共的なものを作ったり排除してきた制度や政策に対する真剣な反省が迫られている、と指摘されています。市営住宅を例にとると、それは公共的使命を帯びて作られてきましたが、その制度をたどると、どのような社会観・人間観や暮らし方を念頭に置いてきたかが見えてきます。それが人々の生活や社会に合わなくなり、変わることを「もの」の方が迫っているように思えます

齋藤さんはソトノバの議論でも、公共の空間をどのように積極的に捉え直すかを問われていました。そこで言われる「もの」とは、物質的な意味に限らない射程を持っていて、制度や言説を巡るシステムも含んでいますね。そうした「もの」と公共性との関係はどのようになるのでしょうか?

山内泰

この問題についてよく感じるのは、横断歩道橋や広い車道の横の狭い歩道を見た時です。そこには車中心・車優先社会の価値観や思想がはっきりと表れています。先ほど言われた市営住宅も、集合住宅がマッチ箱のように並んでいて、スティグマ化をも辞さないある時代の思想を表しているところがありますね。

そのような物理的な物だけではなく、「もの」には例えば制度や法も含まれます。また公共性は時間の「間」にも関わるので、過去や未来の人とも制度を媒介にして出会うことにもなります。例えば憲法を通じて過去の人と出会ったり、気候変動など地球環境を考えると未来の他者との間にも関係を築けます。

こうした公共的な「もの」には両面があります。例えば憲法やその解釈は、幾度となく大切なものとして確認され、過去の政治的な実践や戦争への反省などが公共的な記憶として留まったものです。そうした制度や法という「もの」を通じて私たちは他者と出会っていて、公共的なものは現在の私たちの、「いま・ここ」に傾きがちな関心に疑問を投げかけてくれます。

その逆に、人を引き離している公共的な「もの」もありますね。例えばアメリカの一部の道路は、完全に人々の生活空間を分け隔てる装置になっています。それを意図してあえて建設されたとも言えます。そのように人を結び付けたり、分け隔てたりする両面性も「もの」には備わっています。

齋藤純一

ものに着目したのは、公共的な人と人の間にあることだからです。風土や慣行などに問題があるとして、どのようにアプローチするのか。それに対して、制度やシステム・慣行といった様々に現実を構成している「もの」にどうアプローチしていくか。それを私たちは「手触り感」と呼んでいますが、そこで公共的なものを媒介にして他者との対話をしていくアプローチができるのではないでしょうか。

山内泰
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齋藤純一

早稲田大学政治経済学術院教授(学術院長)
さまざまな人が共に受け入れ、支持できるような制度や規範はどのようなものかを公共哲学の観点から探っています。

山内泰

一般社団法人大牟田未来共創センター理事
ドネルモ代表理事
株式会社ふくしごと取締役
東京大学先端科学技術研究センター特任研究員