公と共と私たち
私の「ユニークネス」が公共性を支えている 私と公共をつなぐ「もの」 (2/4)
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言葉が変える公共性、言葉が貧しくなる分断

だからやはり言葉(が持つ力)は大きいと思いますね。実際の相互行為やコミュニティの範囲だと射程は限られてしまうけれど、ある言葉が出てくると、それは限られた範囲を脱して、他の多くの人も受容でき、自分たちのものとしていけます。つまり、制度や規範がどのように変わっていくかという時に、ボキャブラリーの更新が果たす役割は大きいのです。

齋藤純一

その点も伺いたかったことです。SNSで「Me too」のように言葉を発して変わっていくこともある一方で、言葉がヘイトも含めた様々な分断を生んで「彼らとは違う」という形で切り離して閉じこもることもあり、非常に両義的なものに思えます。

そうした分断の言葉で他者と関わることは、非常にネガティブな形で存在の肯定と関わるものでしょうか。あるいは存在の肯定とは一線を画すものであるなら、その線引きはどのようになされるのでしょうか。

山内泰

それは難しい問題ですね。ジェレミー・ウォルドロンは『ヘイト・スピーチという危害』という本の中で、ヘイト・スピーチは私的な攻撃にとどまらず、言葉という公共財を貧困化していくと言っています。特定のターゲットに投げかけられるのがヘイトですが、それによって公共財としての言葉そのものが貧困化していく。ヘイトをする人にとってはターゲットとなる参照項を指して「彼らとは違う」と自分を描くことで、自分を救い出す面もあるかもしれません。他者を否定することを通じた「自己救済」ですね。そのように憎悪や否定の言葉が溢れてくると、開かれたコミュニケーションに関わることは危険なものになってしまう。公共的なコミュニケーションは引き裂かれ、それぞれにとって安全(そう)なところに分断化されてしまいます。

齋藤純一

言葉という公共財が貧困化し、ヘイト・スピーチに転じていく可能性があるとすれば、言葉にも公共的な使い方と公共的でない使い方があるように思います。インターネットの空間も、初期には現実の中での公共的な言葉の使い方が規範力を持っていたけれど、20年前の2チャンネルのように、私的で非常に抑圧された言葉たちが、逆にインターネットの公共空間に飛び出てきたことがありました。そこでは今までの公共的な言葉の使い方をかく乱して相対化する動きがあり、その言葉が公共的に許容される/されないという区分の議論が起こったと思います。

そうした公共的な言葉とそうではない言葉との関係については、どのようにお考えですか?

山内泰

親密圏から変わる公共社会

この問題は非常に面白いですね。具体的な他者たちと形成する親密圏を考えるとき、一つは生命や生活の具体的な必要に対応していくという面があります。もう一つは言葉に関係する問題で、親密圏である家族や友人関係は社会的な言葉が落下してくる場所でもあります。アルチュセールの言葉で言えば、学校や家庭には「イデオロギー装置」の面があり、社会の影響力がストレートに入ってくる所で、それによって多くの人が苦しんできました。

このように、親密圏は一方では社会的な価値や言葉がヘゲモニー(支配権)を持っている場所です。しかしもう一方では、その影響力が遮られていま社会的に評価されているのとは違う生き方や関係の仕方を探る面があります。ジュディス・バトラーが指摘したように、例えば「クイア」(変態)という言葉の流用や反転が起こって、公共圏における言葉の使われ方とは違う形で、社会から意識的に逸れたり、それに挑戦する言葉が形成されていきます。親密圏の中では、それまでの社会的な言葉が持っている欺瞞や一面性が捉え返されることが起こってきたし、現に今も起き続けていますね。これは公共性にとっても非常に大事なことで、そこから今までは考えられてもみなかった発想や価値も生まれるのではないでしょうか。

もちろんそうした言葉が常に肯定的に受け入れられるのではなく、退けられることも当然あります。ただそれは消えずにどこかの親密圏でプールされていて、そこから新たなボキャブラリーを生みだしていくということが繰り返される。そうした意味で、親密圏の言葉と公共圏の言葉は常にせめぎ合っているんですね。

齋藤純一

公共性を支える一人ひとりのユニークネス

多様な親密圏があれば、それだけ世界は豊かになる

それに関連して、自己責任という言葉も近年になって親密圏から出てきて、公共の議論に一定の場所を占めるようになりました。しかし自己責任論は、むしろ社会的問題・格差等を私的な親密圏に押し付けようとする問題も含むように思えます。それに対してもまた、親密圏の中から自己責任とは違う言葉が送り出されることになるのでしょうか?

山内泰

確かに質も量も十分な選択肢がある状況で、経験の蓄積から自由に選んだ事柄についてその選択の責任が問われる場合は自己責任が成り立ちえますが、そんな状況はまれです。逆に現実に多いのは、非常に劣悪なA かB かの選択を迫られた結果を自己責任として追及する、一方的に個々人に責任を帰す責任論ですね。

それに対して、個人にできるだけ適切な選択状況を開き、生の展望を切り開く「プロモーション」をする社会的責任も、私たちは負っています。つまり個々の自己責任に閉じたものでなく、一人ひとりが生の見通しを開けるように促す制度や慣行に対する公共的責任も、私たちには求められるということです。社会の側の責任を問う言葉を遮るのではなく、それにどう応じるかが鍵になります。例えばエンパワーメントは自己責任に立ち向かう言葉ですね。日本語にしにくいですが。

齋藤純一

自己責任が高まっている中からも、プロモーションのような公共的責任が求められていくということですね。そのような公共的責任としての社会課題への取り組み方については、具体的にどのように考えていけばよいのでしょうか?

山内泰

それについては、ジョン・デューイの『公衆とその諸問題』が参考になると思います。彼によると「公共的なもの」の定義は、「対面的な関係の中では扱えなくなっているもの、自分たちだけではコントロールできない課題」です。そういう公共的な課題に対して、「社会的探求(social inquiry)」という多元的な協働が生じるとされます。それは人々のネットワークを通じて行われる問題解決に向けた探求で、公共的な探求とも言えます。

では、その問題解決を探る探求のネットワークをどのように組めるのか。それについて、デューイは、一握りのエキスパートが専門的な知で解決を図るのではなく、多元的なアクターが様々な観点から課題を理解したり、経験を拾い集めることの重要性を主張しました。つまりさまざまな観点を照らし合わせる、多方向のフィードバックの中で社会的な探求を行っていくということですね。専門家は、どうしても観点が閉じがちです。例の「原子力ムラ」がそうでした。そういう閉じた探求は、間違った解を導くことになりがちです。

したがって社会的な探求は、時間的にも空間的にも開かれている必要がある。社会に散在する多様な経験や認識を汲み上げ、動態的なフィードバックを行っていく。その方が閉じた所で問題解決を図るよりも、はるかに正解を導きやすいという考え方です。スコット・ページという人が「Diversity Trumps Ability(多能性は能力に勝る)」(DTA)と言ったように、色々な観点があることは一握りのテクノクラートの専門知に勝るということです。もちろん専門知は重要ですが、その専門知は疑問や批判にさらされていなければなりません。

齋藤純一
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齋藤純一

早稲田大学政治経済学術院教授(学術院長)
さまざまな人が共に受け入れ、支持できるような制度や規範はどのようなものかを公共哲学の観点から探っています。

山内泰

一般社団法人大牟田未来共創センター理事
ドネルモ代表理事
株式会社ふくしごと取締役
東京大学先端科学技術研究センター特任研究員