公と共と私たち
私の「ユニークネス」が公共性を支えている 私と公共をつなぐ「もの」 (1/4)
Vol.6 - 公と共と私たち

齋藤純一

早稲田大学政治経済学術院教授(学術院長)
さまざまな人が共に受け入れ、支持できるような制度や規範はどのようなものかを公共哲学の観点から探っています。

山内泰

一般社団法人大牟田未来共創センター理事
ドネルモ代表理事
株式会社ふくしごと取締役
東京大学先端科学技術研究センター特任研究員

制度が支える公共性、制度を変える私的な言葉

個々人が存在の肯定を得る場 公共性

公共性や公共の事柄とはどこに存在し、何によって成立するものでしょうか。齋藤さんは、個々人の私的で具体的な生活の中からそれを探ろうとされています。伝統的に公共性は、私的な関心や利害から離れて、社会や地域・国の問題に関わる次元で、「公私をわきまえる」と言うように、しばしば対極として考えられています。しかし齋藤さんによれば、個人の私的で親密な領域こそ、公共性を支える源泉とされます。
一見、別物とみなされる私と公の領域が密接に結びつくのは、どのようにしてでしょうか。それについて齋藤さんは、私的な生活の中の言葉や習慣が他者や社会とせめぎ合い・すり合う制度や慣行の中に、私から公共性への移行を見出されています。
公共性を独立した領域ではなく、個々人の間にある制度や物に媒介されながら変化するものと考えれば、どんなに私的でプライベートな問題や言葉も、他者との公共性に繋がりうる。そんな世界のヒントを齋藤さんの言葉と共に考えていきましょう。

制度が支える公共性、制度を変える私的な言葉

個々人が存在の肯定を得る場 公共性

公共性の問題を捉え直そうとしたときに、日本における公(おおやけ)は、まず自治体などが念頭に置かれています。しかし齋藤さんは公や公共性の可能性を私的な親密圏の領域から探られながら、今までの制度の中で硬直化した公を相対化し、乗り越えようと探求されていますね。そこでお話の出発点として、個々人の私的な存在を肯定することと公共性の関係から伺いたいと思います。というのも存在の肯定は、私的な親密圏と公共の世界を結ぶものと思えるからです。

齋藤さんは著書『公共性』の中で、アレントが言う「孤独(Verlassenheit)」を引用しながら、孤独でなく見捨てられていない状態について、他者を通して存在を肯定されている状態と指摘されています。公共性の基盤にもまた、そのように他者から存在を肯定される体験があるように思えます。そして齋藤さんが「個々の生や生命の位相に応じた公共性の次元がある」と言われる時、それを支える存在の肯定とは、どのようなものでしょうか?

山内泰

まず存在の承認・肯定については多様な形があります。生きるのに不可欠なニーズについては、例えば医療サービスを受けられて生命や健康を保てるという肯定があります。また、家で虐待されないことで生きていけるという最も基本的な肯定の次元もありますね。それから広い意味での働くこと、自分が続けてきた仕事が相応に評価されるという承認もあります。あるいは同じ制度を共有している市民が劣った者として扱われないこと、例えばLGBTQ の方がそのアイデンティティや愛の形ゆえに制度的に差別される仕方で扱われないといった承認もありますね。

このように承認の形自体も非常に多元的です。その人の存在を丸ごと肯定するのではなくて、生のニーズや仕事の成果、市民として平等に処遇される等、様々な次元で承認関係が成り立っていると思います。

ところが今の私たちが持っている評価基準や制度はコンティンジェント(偶然的)で、たまたま持っている能力が高く評価されたりします。その基準や制度にマッチすれば人生がうまくいくし、そうでなければ苦しくなったり、不利になったりします。基準や制度自体は現在たまたま通用しているもので、それが絶対的に正当化されるわけではありません。しかし、物理的な貧困やセクシャリティ等に見られるように、現行の評価基準や制度によって、多様な人々がそのポテンシャリティを発揮し、相応しい承認を得ることを阻まれている、と考えています。

齋藤純一

存在を肯定するために必要な公共性の変化

お話のポイントは様々な存在の位相を肯定する際の障害ですね。そして存在の十全な発揮が阻害されない状況が、存在の肯定なのですね。

山内泰

そうです。例えば、私の友人もALS という難病で、まず肉声のコミュニケーションができなくなり、次にキーボードも打てなくなりました。しかし今の技術では、視線の動きで文章を書くことができる。もちろんすべてが可能では無いけれど、人の助けを得たり、技術の力を利用したりして、大切なことについて何がしかの力を発揮できます。どのような障害が障害のままに放置されているのか、どのような対応がないことで不利が不利のままになっているかを見る必要があると感じます

ですので、存在の肯定やポテンシャリティの発揮を阻んでいるものに対して自覚的であった方が良いんです。現に何を為して、何をどれだけ生産できているかだけで、人の評価をしないことが、存在の肯定に繋がると思っています。

齋藤純一

その場合、自分一人で自己肯定感を高めるわけではなく、存在の肯定や承認に公共性の次元が関わるのはなぜでしょうか。逆に言うと人はなぜその次元を求めてしまうのでしょうか。

山内泰

それについてはアレントの孤独についての議論が参考になります。孤独の英訳は「lonliness」で、その一番過酷な形態は自分で自分を見捨てること、自分で自分の存在意義に疑いを向け、「居ても居なくてもいい」という感覚になることです。その時、自分が社会にとって無用で、むしろ社会に負荷をかける存在になってしまったと自分を捉えてしまう。そうした意味では、社会的な協働の中にともかくも自分がいて、何らかの生産に貢献するということにも、簡単に退けられない面があると思います。高齢の男性が昔の自分で今の自分を何とか支えていることに対して、それが貧しいとは一概には言えないんですね。

そのように公共的なものは人々の自己肯定や自尊にも関わっています。平等な市民として尊重されているか、自分が成し遂げたものが相応に評価されているか、自分の言葉やニーズに応じてくれる他者がいるといった事柄は、私たちが共有している制度や共に受け入れている規範によって大きく左右されます。

例えば制度を見ても、私たちが自分の生をどのように生きられるかがそれによって規定されています。厳しく自己責任を問う形の制度のもとでは、他者との大切な、掛け替えのない関係をないがしろにしてでも、自分自身の生活を守る方向に追い込まれます。あるいは欲望や、こうありたいと願う願望も、自分の中で完結するのではなくて、どういう制度や規範・慣行が私たちの間にあるかによって変わってきます。

そうした意味で、個々人の存在の肯定も、やはり私たちの間(あいだ)にある制度や規範によって左右されます。個人としての存在の肯定や承認にも公共的なものが深く関わっていると考えられますね。

齋藤純一

慣行や規範を変える私的な言葉

制度など、人と人の間にあるものが公共的な領域ということですね。それが個人の願いや肯定感を形作る上でも不可欠なものだということですね。

山内泰

そうです。例えば日本の育休の制度はけっして悪くはないけれど、働き方の慣行のため、育休を取るとキャリアに響くとまだ多くの人が見ています。社会制度としては男性も育休を取ってケアの積極的な担い手になっていくべきだと一方で願いながら、実際は社会慣行のためキャリアの点で割を食うから育休をとれないという矛盾が生じています。

そうした矛盾に対して、私的な問題意識から発してこれまでの公的な制度や規範のあり方を捉え返していくこともできます。社会の制度や慣行はどのようにして変わっていくのかという問題ですね。例えばセクシャルハラスメント、パワーハラスメントも、今は公共的な不正義として捉えられているけれど、ある時代までは私的に我慢すべきものとされていたと思います。しかしボキャブラリーが変わって、それを人格の毀損と捉えることで不正義として捉え返される。あるいはドメスティック・バイオレンスやマリタル・レイプ(配偶者間でのレイプ)などの言葉が生まれることで、これまで夫が正当に行使できると思われていた権限も明確に否定されるようになった。そのように今まで当たり前だった規範や慣行も徐々に綻びて変わっていくわけですね。

齋藤純一
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齋藤純一

早稲田大学政治経済学術院教授(学術院長)
さまざまな人が共に受け入れ、支持できるような制度や規範はどのようなものかを公共哲学の観点から探っています。

山内泰

一般社団法人大牟田未来共創センター理事
ドネルモ代表理事
株式会社ふくしごと取締役
東京大学先端科学技術研究センター特任研究員