自由・政治・遊びの領域
統治が基本的に有用性の話になることは、やむを得ないと思います。だから私は、統治ではなくて政治という言葉を使って、目的から解放された自由の領域を考えています。統治があるのは仕方がないし、むしろ無いと困るけれど、それよりももっと根本的な活動としての自由・政治・遊びといった活動領域を、どのように考えていくかです。
大竹弘二大竹さんの仰る政治は、統治をコントロールするものの一方で、遊びの領域でもあるんですね。それは特定の目的性から離れて色々なことを考えたり営むことができる領域で、それが統治をチェックしたり、管理したりするということでしょうか。
山内泰はい、そういうことです。そもそも目的の設定がなされるのは、政治や遊びの領域です。そこで設定された目的に沿って統治が機能するというのが、ハバーマスやアレント的な「公共圏」の考え方です。
彼らの理論をそのまま受け入れるかどうかは別にして、目的合理的な統治の活動よりも根本的な人間の領域として自由や政治、遊びの領域があるはずだし、あるべきだというのが私の基本的な考え方です。
大竹弘二まさにそうだと思います。私たちも今の社会システムを転換したり、変えていく時に、大転換のような革命が起きるとは考えていません。部分的でちょっとした解放の契機が、ポツポツと起こっていく。そうした既存の目的から解放されたもの達をアレンジし直すアプローチと、遊びの話はすごく近しいあり方に感じて、共感を持ちました。
山内泰ベンヤミンだけでなくて、フランスの戦後の詩学者・映画監督で、シチュアショニストのギー・ドゥボールを中心とするシチュアショニストが、ホイジンガの遊び論を踏まえながら、資本主義を批判するための手段として、遊びがあると論じています。その遊びは本来の用途から転換していく、ある事物の転用の実践です。その点では、今のお話とも繋がるものがありますね。
大竹弘二決断する主体の政治と遊びの政治の二層構造
また大竹さんは最後の方で「非人間の政治」や「事物の政治」といった、既存の人間的なものに閉じないような議論をされていますね。
山内泰これは若干、言いすぎなところもありますが(笑)、既存の人間というのは、いわゆる近代的な人間ですね。その自分の意志を持って決断し行為する人間主体とは違う形での人間観もあるのではないかと考えて、それをあえて「事物」という極端な言い方にしています。
これは、戦間期ドイツの政治学者・シュミットが主張したような、決断する主体という考え方に対する違和感に基づいています。決断する主体が偉い人間だという考え方ではなくて、もっと人間の弱さ、決断できないところを考慮した人間観もあり得るのではないか。そうした人間観に基づいた政治も考えていく必要があるだろうということです。その辺の議論は、立岩真也さんなどの障害者論の影響をかなり受けたところもあります。
大竹弘二これは民主主義をどのように取り戻すかにもつながる大事な理論だと思います。例えば、障害がある人で既存の政治の枠組みに入っていなかった人が政治に入ってくる時には、投票所のバリアフリーを進めたり教育を行き届かせるだけでは足りません。そうした人は理性的にコミュニケーションして、シュミット的に決断して、意見を言える主体ではない場合もあります。そうした人間観を想定するなら、遊びがキーワードにもなってきます。
ベンヤミンの遊びの話は、遊びが新しい配置に転換するのは、決断ではなく、全く別の論理によって駆動されて、結果としてそうなったというものだと思います。しかもそれは行き当たりばったりというのでもなく、ある種の必然性を伴った形で進んでいくものですね。
山内泰そうです。「転用」という実践が決断によって行われるものなら、ある主体が何らかの目的のために利用するという形になり、目的のための手段になってしまいます。けれども転用は。そうした主体がコントロールできる実践ではないと思います。そこに作用している人間観を、ある種の「弱さ」や「無為」といった言葉で解きほぐそうと考えていますが、具体性を持って言うのはなかなか難しいですね。
大竹弘二ベンヤミン的な遊びの議論は、意志なき、決断なきプロセスの結果としてそういうものになった、というように見えやすいです。「本当にちゃんと意志を持って決断していたら、あんなことは起きなかった」あるいは「絶対にこんなことが起きないように、意志を持って個々人が決断しましょう」という議論でも、むしろシュミット的な決断主体の方に重きが置かれることになりますね。
山内泰人間の弱さを備えた遊びの政治
確かに決断する主体自体は全面的に否定することはできないと思います。もちろん状況によっては、決断する主体は絶対に必要だと思います。シュミットは、それこそが本来の人間観だという考え方でした。けれども多分そうではなくて、それよりももっと弱い人間の方が、人間観としては根本的なものとしてあるのではないでしょうか。こうした弱さというレベルでの政治を考えずに、単に強い意志を持って決断する人間という観点だけで考えていくと、政治から取り残されてしまう人たちが、たくさん発生してしまう。例えば重度障害者の人のこともあると思います。もう少し人の弱さを根本に入れた政治的な活動を考えていく必要があるということが最後の所で考えたかったことです。
大竹弘二その時には、主体によるコントロールによって新しいあり方や配置が決まる訳ではないことが、遊びのポイントになってくると思います。そうした遊び的な原理によって進んでいくものは、どのような正当性を持つことになるのでしょうか。
山内泰遊び的なものは必ずしも政治的決定の原理として考えているわけではなく、政治はやはり何らかの決断によって行われる必要はあると思います。けれども、決断によって政策決定される政治の領域と、それより根本的な所にある遊びとしての政治の領域が二つの層に分かれている。だから遊びの中で何となく政治が決まると考えるのでもなくて、ポイントはその二つの関係がどうなっているかですね。
基本的には政治は何らかの決断をする政策決定が必要です。しかしそれだけで政治を考えるのは一面的で、もっとその根本で機能しているような、何らかの民主主義的な政治の領域があると考えています。
大竹弘二決断的な政治の領域と、遊び的な政治の領域のようなレイヤーがあって、それが重なり合う形ということですね。だから決断主体の側だけになると、そこに関わることができない人がたくさん生じることになります。
山内泰遊びの理論は政治学・人類学・哲学など色々な分野で展開されているので、もう一度整理して遊びと政治の関係でやってみたいと思っています。
大竹弘二先ほど二層だと仰った話は一人の人間の中でも二層なのだと思いました。首長や行政の決断する立場にいる人が、状況によっては遊びの領域の政治について体験して通じていると、決断のあり方や政治のあり方も変わるという話ですね。
山内泰そうですね。決断する主体が立ち上がる以前の領域と、そうしたところでの政治的な様々な活動を見ていってほしいですね。だから一人の人間の中でも、決断する主体の層と、遊びのある弱い層の二つがあるということです。
大竹弘二