公と共と私たち
決断する政治、遊びの政治―新しく目的を見出す民主主義の領域 (2/4)
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主権・立法を浸食していく統治

暗黒啓蒙と国民主権・公開性の対立

国民主権は、民主主義または近代における公開性として、色々な人に開かれていることと言えます。その開かれていることの重要性や国家の成り立ちの中で持つ価値について、大竹さんはどこにポイントがあると考えられますか?

山内泰

それは、なぜ国民主権が必要かという問題ですね。確かに「うまく政治ができるなら、国民主権はいらない」という考え方はあります。実際、最近流行りの加速主義や暗黒啓蒙の議論は「もう民主主義にこだわっていると全然希望がないから、資本主義の発展を加速させて、イノベーションをどんどん起こす方が希望や未来がある」という主張です。けれど私自身はなお素朴な啓蒙主義にこだわっており、加速主義のやり方で果たして本当にうまくいくのか、と思っています。そもそも何をもって「うまくいく」と言えるのかという問題でもありますね。

やはり近代的な国民の平等という理念を考えると「専門家に任せて、資本主義を推し進める」という考え方は、国民の間の平等性や貧富の格差の問題をあまり考えていません。それに対して、政治的権利の面でも、経済的な面でも国民の平等性は担保されないといけない。そのための手段として、たとえ平凡な意見に見えても、民主主義を捨てられないのではないでしょうか。

大竹弘二

統治は法律を運用し、変質す

そうした統治の厄介さについて『公開性の根源』の中では、20世紀のユダヤ人哲学者・ベンヤミンの議論から、法の適用それ自体が法を更新して、主権者から離れていくと論じられています。また近代はそうしたベンヤミン的な統治の視点が欠けていたのではないか、とも指摘されています。

山内泰

ベンヤミンは『暴力批判論』で警察権力について言及する中で、法律を適用するためには、法律が具体的な状況の中でそのつど解釈される必要があるという点を指摘しています。そのさいにはどうしても、法律そのものより法律を解釈する立場にある行政権力、執行権を持っている人たちの恣意性や裁量の余地が入ります。そうなると法律は、元々の立法者の意図とは乖離する形で運用される可能性がありますし、場合によっては立法者の意図に反する形で運用されることもありえます。法律が解釈される中で、そもそもの法律の意図を逸脱してしまう状況がある訳ですね。そこでは往々にして、国民の意思よりも、経済的・技術的な合理性に適合する形で法律が解釈されてしまいます。

大竹弘二

そうした解釈の中で現実に合わせた柔軟な運用が想定されていても、それを長い目で見た時には、国民のチェックとは全く違う形で色々に現実が作られてしまうんですね。

山内泰

もちろん、法律を運用するためには、ある程度の裁量や解釈が必要であることは否定できません。ですが場合によっては法律の解釈や運用の方が、法律そのものを破壊するケースも出てきます。法律の運用というものは、元々そうした危険性を本質的に内在しているんですね。

まさにナチスは、そうした危険が具現化した典型例です。危機の時代だった世界大恐慌の時代には、いちいち法律を作ったり、法の手続きに則って政策を行うよりも、専門家や政治家が上から決めていった方が早いという考え方が広まり、大統領緊急命令という非常措置が乱発されることで民主的な立法手続きを軽視する流れができてしまいました。そうしたなかで、結局ナチスによる独裁政治を許容するような雰囲気が生まれてしまったわけです。

大竹弘二

システムの長期的な合理性を支える民主主義

専門家の短期的合理性、民主主義の長期的合理性

民主主義は確かに少し決定に時間がかかるかもしれません。けれども民主主義的な決定自体に完全に合理性がないかというと、国民という被治者の側の意見を取り入れて政策決定する方が、長期的に見てシステムそのものの安定化に繋がるとも考えられます。一部の専門家がするよりは、なるべくたくさんの国民の意見を取り入れる形で意思決定していく方が、長い目で見ればシステムの正当性や安定性に繋がっていく。これは理想論にも聞こえますが、欠点に見える方に実は合理性がある場合もあると思います。

大竹弘二

非常に興味深い論点です。例えば企業の中でも短期的な合理性と長期的な合理性という議論が分かれておらず、比較的短期的な方が重視されがちです。企業にも行政と同じように説明の合理性が求められて、短期的に分かりやすい説明をさせられますが、本来は合理性の視点には色々あると思います。

そこで大竹さんが、対話していくことが長期的に合理的だと言われるのは、システムそのものが破綻しないという視点を考えられているんですね。

山内泰

そうですね。確かに短期的に見ると、専門家に任せた方が良いことはあるかも知れません。ただそれはあくまで短期的・時限的なものに過ぎなくて、長期的・根本的にはやはり民主主義を基盤にしていかないと、システムそのものの安定化には繋がらないと考えます。

経済・技術的合理性が長期的には合理的でないのに段々と強化されていくのは、確かに短期的には合理性があるからでしょう。経済的合理性に関して言えば、ナチスが台頭する直前のドイツにおいても、世界大恐慌の中ではいちいち議会を通して立法するより、専門家が即座に判断を下した方が短期的にうまく行ったように見えたのかもしれません。ですが、短期的な合理性が長期的な合理性と取り違えられ、ずっとそれで良いことになってしまうと、やはりシステムの正当性・安定性自体を脅かす状況になったと思います。

私も専門家をすべて否定している訳ではありません。すべての決定を国民で決める直接民主主義のように、あらゆる決定で国民の意思を確かめるということは非現実的だし望ましくないと思います。そこで何らかの形で国民主権に基づいて国民の意思が発揮される場と、専門家が統治を行う場での協力関係・役割分担は絶対に必要だと思います。

大竹弘二

このお話に関連して、例えば実際にグローバル化が統治に入ってきていて、行政の統計システムは実はある外国企業のアルゴリズムが入っています。情報処理自体が一外国企業が組んだアルゴリズムによって統計処理され、それに基づいて国民のための政策が決定されることも起きている。そうした事態を見ても、グローバル化した統治に対抗する専門家と国民の協力関係も必要になってくると言えますね。

山内泰

国家の統治機構がグローバル企業によって横領される事態は、今後いろいろな場面で見られるようになるかもしれません。そうした中で、専門家の専門知は、国家を国民主権のもとに取り戻すために活かされてほしいと思います。専門家が特権階級としてのグローバル・エリートの顔色ばかりをうかがったり、ましてや自身がそのようなものになろうとすることはあってはなりません。

大竹弘二
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大竹弘二

南山大学国際教養学部 准教授
思想の歴史のなかに民主主義の未来を探る。

山内泰

一般社団法人大牟田未来共創センター理事
ドネルモ代表理事
株式会社ふくしごと取締役
東京大学先端科学技術研究センター特任研究員