公と共と私たち
決断する政治、遊びの政治―新しく目的を見出す民主主義の領域 (3/4)
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遊びと自由の公共性

目的のための有用性、それ自体が目的の有意味性

そのこれからの統治と民主主義の関係を考える中で、大竹さんはベンヤミンの「遊び」の話を取り上げられて、その目的から解放されているあり方に注目されています。それは生存などの目的のために労働する人間を基本に置く近代の考え方とは異なるものですね。

山内泰

『公開性の根源』では、ドイツの政治学者・シュミットが言うような、決断できる人間、つまり自分で意志や目的を持って決断し、それに責任を持つことのできるような主体が重要だという考え方に対して、ベンヤミンの遊びを対置しています。

またベンヤミンと同時代を生きた政治学者・アレントも『人間の条件』の中で似た議論をしています。アレントは「有用性・utility」と「有意味性・meaningfulness」という2つの区別を導入しました。「有用性・utility」とは、ある目的があって、それに役立つことを指します。「有意味性・meaningfulness」とは、それ自体を目的とする活動、何か他の目的のために行うものではなく、それ自体を目的としている活動に関わります。

この後者の有意味性がアレントの言う「遊び」です。だから、何かの目的のための手段や何かの目的に役立つものという考え方それ自体を批判します。例えば「労働・labor」は、何か特定の物を生産するために働く、という有用性が非常に重要なロジックになっています。それに対してアレントは、目的のために役立つという考え方に対する批判として、遊びという概念を考えました。この概念が「活動・action」としての政治という、アレントの考えの基礎になっていると思います。

先ほどの行政の話で言えば、行政権力とは基本的に何か具体的な目的があって、それを解決するために行う活動です。それ自体は否定しないけれど、目的のために役立つ手段なら何でも良いのか、という問題があります。例えばナチス台頭直前の大恐慌時代には、たとえ法律や民主主義の手続きを省略するものであっても、経済の安定化という目的に役立つ有用なやり方であれば良いとされました。有用性ばかりを重視するなら、「目的は手段を正当化する」という考え、つまり、目的のためにはどんな手段も許されるという考え方に陥りかねません。それに対して遊びのそれ自体を目的化する活動こそが、本当に人間の生にとって意味があるのではないか、という考え方です。

大竹弘二

生存を超えた自由な遊び

ベンヤミンにおいては、遊ぶ時にはガラクタとして遊ぶとされます。それは元々目的や有用性の中に組み込まれているものの文脈が壊れてがれきと化したもので、ガラクタゆえに目的に縛られず遊ぶことができるという議論です。その見方で、例えば同じ行政に関わるにしても、ある目的のためにあったけれど枠組みが完全に形骸化してガラクタのようになっているもの、機能不全に陥っているものを別の形に組み替えてやっていくのに近い話だとも感じます。

一方で例えばベンヤミンの同僚でもあったアドルノは、簡単に別文脈で都合よく回収されていく危険を指摘しましたが、大竹さんは、危険はあるけれど、そこには自由の痕跡があると言われています。

山内泰

そこでは自由というものがポイントです。人間にとって単なる生存が重要か、それとも自由の方が重要なのかという問題です。近代の福祉国家や社会国家は、人間の生存を保障することを重視して、色々な社会・福祉政策を行ってきました。もちろんそれも重要ですが、単なる生存ではない自由の保障の方が重要な場合もあるのではないでしょうか。アレントは完全にそちらの立場で、労働や生存よりもむしろ自由の方が重要だと言い、アレントの政治はそうした自由な活動を重視しています。

もしも単なる生存だけが重要で、衣食住に不自由せずにちゃんと暮らせればそれでよいのであれば、必ずしも民主主義にこだわる必要はなくなります。今日でも、国民を食わせていける政治であれば、別に民主主義国家でなくてもいい、という主張もあります。だけど、そうではないと思います。確かに人々の生存保障は政治にとって非常に重要な任務だけれど、人々の自由は政治にとっても重要なんじゃないか。そこから自由な活動としての遊びに可能性を見出したいわけです。

大竹弘二

社会国家はまさに福祉国家として生存を保障します。しかも福祉国家化することで、行政権力がどんどん強くなっていく。ところが、行政権力は生存を守るという目的の手段として色々な統治・規制を強めていき、生存は保障されるけれども、自由の領域がどんどんなくなっていくというお話ですね。

山内泰

そうです。福祉国家が必ずしも自由や民主主義を伴わないという問題は、第二次大戦後のドイツで1950年代に議論されていました。民主主義のない福祉国家もあり得るという話です。戦後ドイツの哲学者・ハバーマスは、それを批判して、福祉国家は民主主義と結びつくものでないといけないと議論しています。単なる福祉国家であれば良いわけではなく、自由をどう保障するかは政治にとって重要なテーマだと私も思います。

ただその自由が、最近の新自由主義的なもの・経済的な生産性などに回収されてしまうと危ういですね。自由の保障が、イノベーションを起こしてより経済を発展させることばかりを目的とするのであれば、それはまた経済合理性や生産のロジックの中に引き込まれてしまいます。

ですから、そうしたものとは違う形で、もっと根本的な自由をどうやって人々に保障していくのか。たとえ何も生み出さないような、全く不毛なものであったとしても、自由な活動が重要だという点を考えていきたいですね。

大竹弘二

そこで言う自由は無目的であって、目的から解放されているということですね。

山内泰

そうですね。特定の目的を持っていたら、また有用性の世界になります。だからそれ自体が目的になっていて、何か他のもののための手段ではないような自由な活動です。そうしたものを考えていきたいと思っています。

大竹弘二

少し抽象的な問いになるかも知れませんが、その場合の統治は基本的には有用性の世界の話になるのでしょうか?

山内泰
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大竹弘二

南山大学国際教養学部 准教授
思想の歴史のなかに民主主義の未来を探る。

山内泰

一般社団法人大牟田未来共創センター理事
ドネルモ代表理事
株式会社ふくしごと取締役
東京大学先端科学技術研究センター特任研究員