公と共と私たち
決断する政治、遊びの政治―新しく目的を見出す民主主義の領域 (1/4)
Vol.4 - 公と共と私たち

大竹弘二

南山大学国際教養学部 准教授
思想の歴史のなかに民主主義の未来を探る。

山内泰

一般社団法人大牟田未来共創センター理事
ドネルモ代表理事
株式会社ふくしごと取締役
東京大学先端科学技術研究センター特任研究員

私たちの公共的な生活を支える行政は、一見そのサービスの受け手である私たち国民のニーズと不可分と考えられています。例えば水道を民営化して僻地の水道管の更新が滞り、断水に見舞われた時は、国民生活の利益を逸脱した異常や過失とされます。しかし大竹さんによれば、行政が行う統治は元々それ独自の効率化・合理化の中で肥大化する性質を備えているとされます。さらに現代ではグローバルな経済・技術の進展に合わせて国民・国家の管理を超えたものになりつつあるともされます。
常に自動で運動するリスクを持つ統治に対して、大竹さんは人々が統治に関われる長期的な合理性の観点を指摘されます。それは合意が遅く迅速な決定に向かないと批判される民主主義的プロセスの欠点を、逆に社会システムを長期的に安定させるものと捉え直すものに見えます。そこから、生存・福祉といった明確な目的に向け政治家・専門家が政策を決断するのとは別の、弱さを備えた人間が目的のない「遊び」の中から新しく公共の目的を見出していく政治の領域を構想されています。今回は大竹さんと共に、政治の次元を弱さと遊びという新しい視点から考え直してみたいと思います。

統治と民主主義の均衡という課題

行政による統治の肥大化が民主主義を危機にする

まず最初に『統治新論』と『公開性の根源』をベースにして、統治の問題点や難しさについて2つの視点から伺いたいと思います。

まず普通に公(おおやけ)という時には行政が公を担い、市民は私(わたくし)の領域、民間と呼ばれる領域にいます。民間が行政に関わる時は、選挙で選ばれた議員が立法した法律で行政をコントロールするというのが、近代民主主義国家の基本構造です。しかしなぜ行政に対して主権を持つはずの国民が、議員や立法という迂回をしないといけないのかという問題があります。大竹さんは行政をコントロールする時に、主権に基づく統治そのものが実は本質的に難しいことも論点にされていますが、そもそも統治とはどのような性質を持つのでしょうか。

また行政にITを導入して効率化することも、基本的には統治をいかに効率よく進めるかという考え方です。それに対して大竹さんは、統治が政治的な公開性を離れて自律すると指摘され、経済的・テクノロジー的合理性に基づくあり方も問題視されています。そのように行政の統治が効率性に基づくことに対しては、どのようにお考えでしょうか。

山内泰

よく誤解されるのですが、『統治新論』や『公開性の根源』では、国家の行政権力を批判したわけではなく、行政の統治が主権・法を超えていくという、より大きなテーマを扱っています。そこでは単に行政権力が肥大化していくことだけでなく、むしろ国家すらも超えていく形での統治が進んでいるという問題意識が最初にありました。

統治の肥大化とは、国家権力が肥大化するというより、むしろ国家を超えるような経済やテクノロジーの論理に国家が従属し、コントロールされてしまう状況です。このように国家が経済やテクノロジーによっていわば植民地化される状況に対して、私はもう少し国家に可能性を見て良いのではないかという立場です。私は国家の行政を単に批判するのでなく、どうやって行政権力を民主主義に根ざしたものにしていくか、行政権力と民主主義はどのように協力し合えば、民主主義それ自体を破壊しかねない経済・テクノロジーの論理に抵抗できるのかを考えています。

現在における危機とは、民主主義の危機です。最近では、民主主義は決定に時間がかかるし、意見がまとまりにくいというコストもあるのだから、そのような民主主義の手続きなどは省いて経済や科学技術の専門家が政治をすれば良いという考え方も出てきています。それに対してもう一度、民主主義の下に国家を取り戻していくやり方はないか、ということが一番大きなポイントですね。

大竹弘二

再び統治が国家・主権に優越する現代

国家の中の行政が問題というよりも、例えば軍事部門が民間委託されるなど経済的・技術的合理性によって、本来それらの影響が及ばない装置である国家も浸食され、液状化していくことが問題ですね。しかもそれは歴史的にテクノロジーが発展したから急に起きたというより、そもそも統治が本質的に肥大化しやすく、主権によってコントロールしづらい性格を持っていたということですね。

山内泰

そういうことです。近代主権国家の成立以前から統治の論理は様々にあって、どうやって人々を上手く統治していくかという思想がありました。しかしそれはしばしば、単なる権力政治に基づいた権謀術数としての統治という考え方に繋がりました。近代の主権理論は、そうした権力政治を何とか国家の法規範のもとでコントロールするためのロジックとして誕生したのです。

ところが最近は、その主権理論そのものがテクノロジーの発達もあって危うい状態になり、また近代主権国家以前の状態に戻りつつあるのでないかと考えられます。今日ではいわゆる新自由主義的な民営化によって統治の色々な要素が民間委託されています。そのような形で、国家の主権や法律に対する統治の優位が現在再び現れていると言えます。

大竹弘二

近代国家の前から統治の問題はずっとあって、国を統治する立場にある人が領土を上手く治める方法として統治の理論があったわけですね。

山内泰

当時は領土という概念はまだ無いのですが、どのような政治が「良い統治」なのかという議論自体は古代中世からずっとあって、国王の統治技術論のような教えもありました。

しかしそこでは、主権国家というものはまだ前提にされていないんです。法律の根拠を国家主権のうちに見出し、主権のもとで作られた法律に基づいて統治を行うという法治国家的な考え方自体が近代的なものですね。このような国家主権の考え方は、特に16世紀のボダン、17世紀のホッブズといったヨーロッパの政治思想家によって確立されました。

大竹弘二

統治をコントロールする主権・法律

ボダンやホッブズなどを経て、近代に主権という概念が出てきた。そしてその主権が立法権として定義されたことには、どういう必然性や理由・背景があったのでしょうか?

山内泰

ボダンは統治を単なる技術論とみなすのではなく、法律に基づいて統治しないといけないという考え方ですが、それは神学に基づくものです。彼にとっては、政治がただの統治技術とならないためには、神学的な規範が必要でした。究極的には神の真理性に由来する主権が、法律を媒介として国家を統治することで、秩序ある規範的な政治が可能になるのです。このようにボダンは立法を神学的に基礎づけることで、政治に規範性や秩序を持たせようとしたんですね。

ホッブズにおいては、その神自体がなくなって、今度は主権者自身に置き換わるという形です。そして彼は、国王を主権者とする政体こそが最善であるとしています。いずれにせよ、規範性をもった統治が行われるためには、法律を作る立法権としての主権に基づく政治が必要だというのが、ボダンやホッブズの議論です。

『公開性の根源』でも書いたように、近代初期の国家理性論ではしばしば政治が単なる権力技術だとみなされ、通俗的なマキャヴェリズムもそういう形で理解されていました。そこでボダンはそうしたマキャヴェリズムを批判して、政治は法律や規範に基づかなければならないと考えたのです。

つまり統治をコントロールするために法があるし、その法の根拠は主権にあります。そしてその主権の担い手は、ボダンやホッブズにおいては国王でしたが、近代においては国民へと移り替わっていきます。このようにして今日の国民主権の考え方が生まれました。ところが、最近は法の根拠としての主権自体が非常に危ない状況にある、と私は考えています。

大竹弘二
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大竹弘二

南山大学国際教養学部 准教授
思想の歴史のなかに民主主義の未来を探る。

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株式会社ふくしごと取締役
東京大学先端科学技術研究センター特任研究員