不可思議な「わたし」を巡る
役割から解放された自我、共にある場所 (4/4)
1 2 3 4

違和感としての自我アイデンティティ

人間は自分についても「語りえなさ」を持っています。例えば僕らは何らかの社会的役割を担っていますが、「それっぽいけど、それとは違う」という感覚を持つことも多いです。その社会的役割には還元されないという意味で、人間はたぶん、何らかの余白を残して生きている気がします。その余白としての還元されないもの・言語化されないものは、ずっと(人生の中で)続いていく。そのように、共にある自己の語りえなさの中に、感性的で何か表現できないまま培われた身体性が常に横たわっている気がしますが、いかがでしょう?

津田翔太郎

つまり、ここでの自我アイデンティティは、言語的・意識的に捉えられないが、予感されたり違和感を持つ基盤ですね。違和感は自我から来ているけれど、よく分からない「何か」ですね。そういう「何か」として、自我アイデンティティがある。それは否定性でもあって、自己アイデンティティのポジティブな規定を当てても「ちょっと違う」と、別の規定を当てはめても「ちょっと違う」と、ポジティブな規定によって経験されるものから違和感として経験されていく。自我アイデンティティはそのように表現されたり、思い描かれようとする性格があると思います。

そこで少し話を戻しますが、この違和感のようなものと、先ほどのvulnerability(傷つきやすさ)はどう関わってくるでしょうか?

山内泰

例えば、今の我々は、初めに話した多元的なアイデンティティが称揚されやすい社会の中に生きています。そこで色々な場に適応できずに過剰に一貫性を追い求めすぎてしまうと、生きづらくなってくる訳ですね。この生きづらい感じ・誰が悪いわけでもないのにしんどいことは、このvulnerabilityの脆弱性に関わっていると思いますね。

津田翔太郎

なるほど。その生きづらさや違和感自体がvulnerabilityそのものだから、違和感を無かったことにしないことが、自我アイデンティティにアプローチする際のポイントかもしれませんね。まず何かしら社会的に要請された役割の中で自分が傷ついている。その傷ついている当のものが自我アイデンティティである。そのことに自覚的になり、傷ついているあり方そのものが少しでも自己開示されることがポイントになりますね。

山内泰

おっしゃる通りで、まとめて頂いてありがとうございます。

津田翔太郎

自我アイデンティティを引き出す場所と仕組み

それに加えて、先ほどの場所を巡るアイデンティティ、つまり身体と自我アイデンティティの話がどのように関わるかを、引き継いで考えたいと思っているところです。

そうした事例として、津田さんは承認の論文の最後に芝の家を挙げられていますね。僕は芝の家に行きましたが、芝の家は基本的に何かしても良いし、しなくても良い。目的があっても良いし、なくても良いという基本コンセプトになっているのと、来た人たちが役割規定から自由に振る舞えるように、スタッフ自身が自由であることが尊重されています。来たくなければ来なくていいし、途中で泣きたくなったら、帰ってもいい。とにかく、そこにいる人がサービス提供者としての役割を演じない。この役割的に振る舞わないことが非常に尊重されて、いかに役割的関係から離れるかが一つのポイントになっていますね。

そうした仕組みによって、違和感や「何かしんどい」というある種のvulnerabilityが自我アイデンティティの契機になる、ということは感じました。ただ、結果的に中でそういうことが起きるかもしれないですが、積極的にvulnerabilityをテーマとして扱っても、そのまま上手くいくわけではないように思えます。

そこで課題は、芝の家は社会の側に意図を持って設計された仕組み・装置ですが、その装置の中でどういう条件や機能があれば良いのかということです。これについては津田さんも、「vulnerabilityを扱うにしても、容易に色々な落とし穴に嵌まるから、どのようにそれを避けるか」という議論をされていたように思います。それと同時に、vulnerabilityを扱うポジティブで積極的な装置の可能性も考えていきたいですね。

山内泰

今のお話は、「役割に還元されない『わたし』に関する偶発的な気付き」に関連するものだと思いました。それは、日常的な他者との相互行為を介して起きることもありますが、相互行為が日常化すると予定調和的になり、偶発性が起こるのが難しい面もあります。また、異質性を備えた他者との相互行為が生まれた時に「自分にはこんな側面があった」という形で気付きが得られることがありますが、今の社会の構造を見ると、相互行為の相手となる他者が社会階層や収入などで平準化されている面があります。

これに対して、社会的な役割に囚われないようなかたちで、人と人が偶発的に出会う瞬間を作っていく必要があると感じています。ただ、偶発性や混沌を備えた他者との出会いを可能にする場を仕組みとして設計して果たして良いのかどうか。そこに引っかかっています。山内さんは、その辺りをいかがお考えですか?

津田翔太郎

社会の側が仕組みとしてそれを準備しなかった場合、お話された社会構造や関係性の固定化・平準化によって、たくさんの人と会う人がいる一方で、まったく出会わない人もいる状況が、そのまま温存されてしまう。それに対して、どういう介入や社会そのものを構想するかが、我々がまさに考えたいポイントです。

そこで津田さんが今言われた、社会的にそういう仕組みを準備することの懸念点を、最後に伺えればと思います。

山内泰

自我が引き出される余白の場

何らかの場やコミュニティを作る時には、それが紙の上のレベルでも、何らかの目的性をもって作ることになると思います。そして目的性をもって作ると、それに引きずられて、人は予定調和的に決められた枠の中でしか集まれなくなりがちです。だから、偶発性や何者でもない状況を作るということは、矛盾を抱えている気がしています。

具体的な事例を出すと、僕は中学校では保健室がすごく好きでした。保健室にいると、クラスの中でヤンキーの子や逆に勉強だけしかしない子もたまに来て、クラスの役割から逃れて謎の連帯感が生まれる場合があるんです。それは多分、保健室という体を癒す場という緩い目的性が、クラスにおける集団の役割とは全く別の次元の雰囲気を醸し出すからです。そこでは、クラスの役割に基づいて仲良くするというのではなく、様々な目的で来てもよい、なおかつ誰が来てもよい雰囲気がありました。そういった場で自発的に、普段クラスでなかなか喋らない人と、それぞれが好きな物や謎の自己紹介を話し合うという場が生まれていました。そこには何かヒントがあるように思っています。

津田翔太郎

それはまさにアジールをどう作るかという話ですね。保健室として設計されているものに、使う側が違う意味を見出す。それに対して「保健室では保健室的な振る舞いしか駄目です」と言うと、このアジールは生まれないわけですね。例えば目的が限定されやすい病院の待合室や学校でも理科室では起きにくいけれど、保健室では起きやすいというのがポイントと言えます。それは保健が教育する場ではなく、学校の様々な目的から外れているからですね。怪我したら手当てするが、怪我してなくても行けることで、教育する場でも手当される場でもなく、よく分からない形の余白があるといえます。その余白の中に集まる人が独自の意味を色々見出して、教室空間の中の役割分担ではナチュラルに繋がることが難しい人たちが、違う関係を取り結びやすくなっているのでしょう。

その意味では、芝の家の難しさは、非常に抽象的かつ先鋭的に無目的と言ってしまっているけれど、逆にそれは無目的であることを強いていると言えることです。わくわく人生サロンはそういう気付きが起きてもいいし、起きなくてもどっちでもいいという感覚があり、人に行為を強要する場でもないし、何かしら促して仕向けるものでもなく、いかにその人が主体的に振る舞うようになるかがポイントです。

そう考えた時に、ある種の余白をどういう風に準備するかは、場を作っていく側には非常に大事ですね。一般的に場を作るファシリテーションでも指図する人がガチガチにやろうとすると場が凍り付くことがあって、ファシリテーターはとにかくいい加減で適当な方が良いんですよ。その時は参加した人達が、そこに主体性を見出してがんばろうとするからです。

そうした話とも繋がっているので、場の設計においては、津田さんが懸念されたように、ある目的に絡め取られてしまわない自由で色々に解釈できる余地・微妙なあいまいさをどのように設計していくかですね。学校の保健室は例外的・偶発的に生まれたものだと思うので、それをどうやってポジティブな形で整えていくか、最後にその課題を共有することができたと思います。ありがとうございました。

山内泰
1 2 3 4