不可思議な「わたし」を巡る
「役割から解放された自我、共にある場所 (1/4)
 - 不可思議な「わたし」を巡る

津田翔太郎

神戸大学人文学研究科研究員/神戸大学他非常勤講師
「わたし」や「他者」に関する理論研究をしています。

山内泰

一般社団法人大牟田未来共創センター理事
ドネルモ代表理事
株式会社ふくしごと取締役
東京大学先端科学技術研究センター特任研究員

ある時は会社員、ある時は上司と部下、ある時はカフェの客。私たちは社会の中で日々、何かしらの役割を持って、暮らしています。その中で自分のアイデンティティが見出され、他者からどう見られるか、どんな役割を持っているかを意識し、制御しながら、自分の存在を保っています。ペルソナとも言える多元的な役割は自分のアイデンティティを彩るものでもあります。
しかし、ふとそれらの役割アイデンティティの連続に疲れ、手放したくなる時は誰にでもあるのではないでしょうか。その時、私のアイデンティティはどのような形になるのでしょうか。ここでは津田さんと山内さんの対話を通して、その役割アイデンティティに疲れた「しんどさ」を肯定し、その傷ついた弱さの中でもほっとして生きられる場のあり方を、皆さんの人生の中で設えてみませんか。

「他者と共にあることで生まれる自我アイデンティティ」

2つのアイデンティティ―社会的に構成される「自己」、身体に根差した「自我」

私たちが前提にしている自分のアイデンティティとはどのようなものでしょうか。今回は、社会の中で要請される役割としての「自己」、身体に根差し自分の存在の根とも言える「自我」の2つのアイデンティティを巡って、津田さんとお話したいと思います。

手がかりとした津田さんの論文によると、発達心理学者・エリクソンの議論では、アイデンティティは理想的・抽象的な概念として想定され、「近代的な主体」が理念とされる形だったとされます。それは近代的な社会構造を支えるとともに、人権運動などの理論的支柱になりました。アイデンティティは普遍性を持って構成されている理念だったので、色々な普遍的価値を目指す近代そのものを支えていました。しかし逆に言えば、普遍性が宿す規範性が抑圧的にも働いた、と津田さんは指摘されています。

この抑圧的なものに対して自覚的になってくることで、近代的なアイデンティティを脱構築するような試みが図られます。そこで上野千鶴子のように「構築的・多元的なアイデンティティ」が議論されるようになった、と津田さんは論じられています。多元的アイデンティティは、理想的ではあるけれど抑圧的にもなる近代的アイデンティティに対する批判として求められました。けれどもそれは多元的であることで、どんどん社会的な物差しを失い、拠って立つ基盤を無くしてもいきます。また多元的なありようは、流動的な社会に適応する形で「誰でもない」ことを強いる別の抑圧が生み出されます。

これは新しい個人主義とも言えます。それは近代的アイデンティティの普遍性が持つ抑圧に対しては批判的に機能する一方で、自分の寄る辺なさが存在論的不安として高まっていきます。その寄る辺ない不安に対して、統合への志向が生まれてくる。アイデンティティを構成している社会そのものが流動的になるから、多元的に寄る辺がない。そこで、生得的・内在的で社会の流動性に影響されない、ある意味で「客観的」に認識しやすいものに依拠する形で統合への志向性が生まれてきました。遺伝子はまさにその例ですし、心理学や脳科学的言説も、社会の側ではなく、自分の側に根拠を求める例だと言えます。

しかし津田さんは、「多元的なのが不安だから統合へ」という簡単な図式を退けて、統合的アイデンティティはそのような理路で構成されるばかりではない、と指摘されます。そうして近代的でも多元的でもない、統合的アイデンティティとして、「自己物語」という考え方を示されます。

自己物語とは、他者に話をする点では他者を媒介にしている変わりやすさを持っています。その一方で私らしさとは「私」に閉じていて、変わりにくく個性的なものも兼ね備えています。 そうした両義性が、身体に基づいていることによると津田さんは考えられていますね。「ハビトゥス」やメルロ=ポンティの身体図式論を参照すると、身体は環境に埋め込まれているから、何かしらの形で社会的に構成されている。例えば箸を持つ癖は明らかに社会的に構成されているけれど、自分の意識では簡単に変えられない変わりにくさも持っている。そういう形で「私っぽさ」が身体から出てくると津田さんは論じられます。

山内泰

私らしさに気付く自我アイデンティティ

このように自己物語としての統合的アイデンティティは、相互依存的に構成され、社会と環境に根を張った身体において他者との相互行為を行い、変わりやすさと変わりにくさを合わせ持っている。しかも「私らしさ」という自己の物語も、他者との緩やかな複数の物語ユニットで成り立っているというお話です。この話を包摂するものとして「多元的・循環自己概念」という、杉浦健さんの考え方が援用されています。それは自己が実体的なものではなく、循環的に立ち現れてくるというものです。

津田さんの論は、多元的に循環する自己が導き出されてきた色々な歴史的プロセスについて整理されていますが、その問題意識は僕たちも共有しています。そこで、こうした多元的・循環的自己は「存在論的不安」と言われるものに対して、どのように働きかけるとお考えでしょうか。

山内泰

多元的・循環的自己は理論的な説明概念です。それを発展的に解釈すると、他者との重層的な相互行為の中で、自己イメージに基づいて「これは自分らしい」と感じる時は、「嫌な私」、「不安な私」の場合もありうると思います。そのようにして循環的に作られた自己をどこかで解消するために、自身ですら把捉しきれない自己を上手く他者との相互行為の中で培っていくことで、存在論的不安がある程度解消されることは考えられます。

津田翔太郎

なるほど。多元的・循環的自己が、身体に根ざした私と社会との相互行為の中で色々な自己イメージが立ち上がってくる。その自己イメージがもう少し進んでいくと、それでは捉えられない「こんな自分もあるんだ」と見出す契機が多元循環の方にあるわけですね。つまり「自分はこういうあり方もするのか」というおもわぬ局面が、存在論的不安を乗り越える契機になるかもしれないわけですね。

今の話をベースにして、論文の最後の方で浜田さんの議論をされています。浜田さんも、多元的アイデンティティによる抑圧を指摘して、それを乗り越えるものとして、そもそもエリクソンの言う「統合的アイデンティティ」が、社会内の役割的な「自己」ではなくて「自我」のことだと論じています。その中で自我アイデンティティの話もしています。しかし津田さんはそれに対して、創発的な自我アイデンティティが理想化されているのでないかという懸念・疑問を提示されています。この「理想化されている」という疑問・懸念について、説明して頂けますか?

山内泰

自我アイデンティティを引き出す難しさ

浜田さんが論じた自我アイデンティティは、生活している中で立ち現れる社会的な役割に還元されないものだと考えられます。それは、他者と喋っていて「これは私らしいな」とふと思う感覚、役割に還元されない「私らしい」という感覚だと思われます。その気付きはおそらく、瞬間的に過去の自分の何かとつながり「私らしい」と感じることだと言えます。その気付きが人間としてとても重要だと考えており、(私も)それに関連する研究をしたいと思っています。

ただ現代は、社会構造や他者との関係がすごく流動化しているところがありますね。我々の日常的な感覚においても、例えば家族や恋人、親しい友人がいる人は良いかもしれませんが、それを作りやすい階層とそうでない階層に分断されていると思います。この後者の方に焦点を当てると、他者と絡んでいる中で「これが自分だ!」と思う瞬間すらない人も世の中にいます。そうした自我アイデンティティを持てない人達も包摂できる枠組みを作っていくべきかと思います。ですから、自我アイデンティティについてはすごく良いとは思いますが、そうした包摂も考慮しなければならないと考えて、論文をまとめています。

津田翔太郎

つまり津田さんの問題意識は、「これは自分だ」と思えない、他者との関わりの中でアイデンティティが継続的に形成される関係が結びづらい人々の状況ですね。その状況の中では存在論的不安に囚われているのがデフォルトになっている。それに対する対応として、自我アイデンティティの議論は理想的だが、それを持続させたり、そこに入れない人はどうなるのかが難しいという問題ですね。

山内泰

自我アイデンティティを持続させるのも難しいし、そもそもそうした瞬間に気付く契機すらない人も少なくないと思うので、気付きと継続という両方の側面で、少し難しい面があると思っています。

津田翔太郎

そこはポイントで、存在論的不安とは存在に対する不安ですが、それに対して自我ではなく、自己という社会の中の何らかの役割からアプローチを考えるという現代の設定が、そもそも難しさをもっているように思えます。これについては、いかがでしょうか。

山内泰
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