不可思議な「わたし」を巡る
役割から解放された自我、共にある場所 (2/4)
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対話コミュニケーションによる自己を打ち破る創発的自我

そうですね。多元的・循環的な自己を構成し、行為の主体となる行為者は、身体に基づいた語り手でもあります。この語り手は、相互行為や埋め込まれた社会の言語に還元されない側面もあるし、自分でも説明できないような身体的経験を色々と背負っています。他方、理論的には他者と循環的に相互に行為して、何らかの自己が作られることはあります。

けれども、それを打ち破るような創造性・内発性を持つ「創発的自我」の源泉を、身体に紐づいて我々は持っています。そのように、場に還元されない何かに基づいて自我アイデンティティに近いものが誘発される可能性はあると思います。そこに可能性なり希望を見出していきたいというのが、この論文の裏にあるテーマです。

津田翔太郎

それには僕たちも近い問題意識を持っています。例えば、「宅老所よりあい」という特別養護老人ホームも営んでいる村瀬さんの話では、対話的なコミュニケーションを取らなくなっていたとしても、一緒にいるだけで何かが起きていて、何かしらの帰属意識や存在的なものの肯定が起きている、と言われます。そこでは身体というメディアが相互反応することが、同じ場所と同じ時間を共有していることで起きたりしています。

大牟田でやっていた「わくわく人生サロン」で自分たちが現場で体感した話でも、話している内容はほとんど問題になりませんでした。ただそれが、自分のことを巡っているというのは問題になったかもしれません。そこでは話すことで自分の認識が新しくなるのとは別に、身体運動として自分が話をすることや、社会的な役割という鎧を着なくても、自分は何を話しても良いという状況が生まれています。そういうところに先ほどの津田さんの内発的・創発的な自我みたいなものが生まれるのかもしれません。その時には目元が良い感じだったり、表情がすごく良いということしか感じないけれど、その現象に何らかの言葉を付けるなら、この創発的自我やエリクソンが言う自我アイデンティティのような地平の話ではないか、と直感的に感じました。

だから津田さんが論文の裏テーマで言われたように、言語的に構成しえないという点こそ、実は存在論的不安と密接に結びついていて、承認欲求の話ともつながっていると思います。既存のメディアや文字・画像など記号を媒介にしたコミュニケーションは、基本的に「自己」に関わる領域の話です。しかし自己に関わる領域をどれだけシャットしても、残るものの領域が自我につながるように思います。

そう考えた時、津田さんが自我アイデンティティの領域を論じられる際に何がポイントになるでしょうか。

山内泰

自我を引き出すvulnerability

傷つきやすさ(vulnerability)が開く自我の領域

ちょうど今研究しているテーマと近しいので、その観点からお話します。樸たちは基本的に死に向かって生きていますね。その死の感覚や観念・思いはなかなか言葉にできない部分ですが、身近なレベルまで感覚を落とすと、「vulnerability(脆弱性)」という概念として捉えることができると思います。これは広い意味では、自分自身の言葉にも還元されないような存在の儚さや傷つきやすさにフォーカスする概念で、死という観念と、ある文脈では近しいと考えられます。そういった自分自身のある種の傷つきやすさや弱さを、「自分の有限性」と捉えて「ああ、自分はここに存在しているんだ」という気付きもあると思います。Vulnerabilityを実感する中で、「自分は今ここに存在していて、こんなことで傷つくんだ」ということから、自分の新しい道を見つけていくことがあり得ます。それは自己や社会構築性に還元されにくい感覚で、自我の領域の重要なポイントだと思います。

津田翔太郎

それはすごく面白いですね。vulnerabilityという弱さ・傷つきやすさが契機となって、自我に関わることができるという話ですね。それは感覚としてよく分かります。

例えば、わくわく人生サロンにも書いているかもしれないですが、基本的に「self(自己)」という社会的役割によってアイデンティティを構成していく所では、自分がどんな役割を身にまとっているか、どんな鎧を着ているかの勝負になります。それはある種の自分の強さに向かっていく議論になると思います。

しかし、vulnerabilityはそもそも自分が何をまとおうと弱く傷つきやすい。自分の体の有限性と仰いましたが、有限性は自分の身体に巻き込まれているものですね。そうした有限性を基軸として考えた場合、自我的なものにたどり着くように思えます。そこでvulnerabilityをどのように考えて取り扱うかが、私たちの社会の中に自我の領域をどう呼び込むかという話に関わってくるかもしれません。

ちなみにvulnerabilityの話をするときに、津田さんが念頭に置いているシチュエーションや事例はどういうものでしょうか?

山内泰

それには大きく二つあります。一つは、岡本祐子さんのある論文に書かれていた事例を解釈したもので、高齢者のアイデンティティに関して、仕事や人生があと少しになり、今までの役割やアイデンティティも今後は通用しなくなる状況になる。その中で自分の人生を振り返った時に、ネガティブに捉えるのではなく、有限な10年、20年の人生かもしれないけど、色々振り返って「私はここから何か違うことをできるかも」という気付きがあったという視点です。そうした高齢者の方のアイデンティティのあり方がイメージとしてあります。わくわく人生サロンのように、一般的に高齢で引退間際の方は、背負ってきた役割から多かれ少なかれ降りないといけない局面がでてきます。その時、その人の今後の人生を考えていく上で、vulnerabilityが非常に大事な概念なのかなと思いました。

もう一つは、自分の例ですが、僕はたまに友達と山に行きます。その時一、二回、かなり危険な状況に陥ってしまったことがありました。その時にふと「俺は死ぬんや」と感じて、その危機的な状況を乗り越えた時に「ちゃんと生きよう」と思ったことがありました。そうした身近な生活の中で私たちがたまに感じるレベルで、自分の人生の儚さやvulnerabilityに基づいたアイデンティティのあり方が立ち現れることがあるのではないでしょうか。

ただ両者に通底するのは、そこに何かしらを共有する他者がいるような気がします。その契機は自分だけで考えたり体験したりというよりも、やはり他者との関わりが大事になってくるように思います。

津田翔太郎

弱さを共有する社会

その上で、それをどういうものとして僕たちの社会が共有する、または取り扱うかが問われると思います。近代の社会学や、もしかすると近代社会そのものがギデンズの言う「経験の隔離」であって、自我を「合理的ではないものは扱えないもの」として排除した結果、遺伝や人種・民族といったものすごく巨大な魔術が近代社会に戻ってくる。そうした極端な形ではない文脈で、自我の取り扱い方・共有の仕方が問題になります。そう言うと「意識できないようなことは分かりようがなく、分かりようがないことは扱わない」と簡単に言いがちですが、それとは別様に考える必要があると思います。

山内泰

そのヒントを大澤真幸さんが議論しているように思います。共通の価値で繋がることができない局面まで人間は多様化・複雑化しているから、共通理念で繋がるのではなく、「否定性」という概念が大事になる。つまり全然異なるAとBの文化で生活している人が、それぞれ自分の文化に対して何らかの違和感を感じている。その違和感は言語化できないレベルで身体化されたものですが、言語化できないゆえに、Aの文化もBの文化も「この文化は何かちょっとしんどいよね」と、ニアリーイコールで緩く連帯する。そこから社会を作っていこう、という話をしていました。

だから言語化や具体的な扱い方は難しいところですが、体感として、何らかの「しんどさ」をカオスのまま共有し、そこから立ち上がる社会や個人のあり方を希求するという視点はあるかもしれませんね。

津田翔太郎
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