不可思議な「わたし」を巡る
役割から解放された自我、共にある場所 (3/4)
1 2 3 4

承認欲求において、自我と自己アイデンティティが交錯する

ある種の違和感・否定性が契機になるというのは、共感できます。何かしら社会的にしっくりこないという「しんどさ」を契機としながら、連帯の契機を見出すことも理念的に分かります。その上で、この話が具体的にどういうありようを持つのかを、考えてみたいと思います。

vulnerabilityについても、ある種の弱さが自我アイデンティティに関わる領域だとして、その時に承認や自己アイデンティティ・役割アイデンティティがどのように位置づいていて、相互に関わったりするとお考えでしょうか。

山内泰

難しい質問ですね。承認に関する論文で参考にしたアクセル・ホネットの議論では、承認を三つの象限で捉えています。一つは具体的な他者、例えば恋人や家族に認めてもらう承認です。それから社会的な承認、つまり所属する集団で業績を上げたり、サークルでサッカーが上手いというような自分の能力で認めてもらうあり方があります。最後に法律的な承認で、法的に権利が差別されていないというものです。

この3つの中で特に社会的承認は能力に関わるので、自己に関わる部分がとても大きいと思います。また具体的な他者から承認されるのは、たとえば夫や親しい友人などの役割的な部分も大きいとは思います。ただし、家族や恋人と一緒にいるだけというレベルで考えると、具体的な他者による承認は何らかの自我を包摂している感覚も強いように思えます。そう考えると、ホネットの議論から少し離れますが、自我を少なくとも排除しない関係性が大事ではないでしょうか。それが可能な他者とは、先ほど「そこにいるだけ」なのも大事だと言われましたが、その他者のことを「よく分からない、理解できない」という感覚も含め、肯定も否定もせずに、ただただそこに存在するものとして受け入れ一緒にいることが、とても大事な気がしています。それこそ自分や他者の中における語りえなさ、そうした語りえなさを言語化して理解しようとするのでなく、いったん相互にぼやっとしたままで承認することが重要に思えます。

津田翔太郎

「ただ側にいる」ときに起きていること

その論点について2点提起したいと思います。「ただ側にいる」という話は、以前から僕たちも大牟田で考えていたことです。大牟田の小規模多機能の施設の浦さんは、利用者にずっと「リハビリをがんばれ」と言っていたけれど、ある時におばあさんから「これ以上何をがんばれというのかね?」と言われて、すごくショックを受けたと話されました。そこから浦さんは、何かをしてあげて支援しようということではなく、ただ隣にいることを始めたそうです。老いが進行すると以前のようにはできなくなって、「こんなことができなくなったんよ」と言われるのを「そうか、そうか」とただ隣で聞いている。その時には何が起きているのでしょうか。

また「よりあい」の村瀬さんも、例えば「家に帰る」と言って、歩いていくおじいさんが歩くのに付き合うそうです。結局は家に帰れないし、道も分からなくなって、前みたいには自分が出来ない。でもその時に、おじいさんを一人にしないそうです。その出来なくなるプロセスの時に一緒に側にいることは、そういう(先ほどの)話と繋がるように思います。

お年寄りの話以外にも、例えば『レンタルなんもしない人』の話は、ある意味で自我アイデンティティの話だと思います。何の機能か分からないし、それが承認なのかどうか分からない。たとえ承認しているとして、何を承認しているのかがポイントです。その点は、津田さんがご興味あれば、ぜひ考えて頂きたい点です。

山内泰

自我アイデンティティを支える社会モデル

もう一つは、ホネットの承認論の3区分のうち、法関係における承認が一番大事ではないかと思います。そこでは人権が尊重されているとはどういうことなのかが体感されます。例えばある理学療法士の方は、子供が落ち着きなくずっとキョロキョロしている時に、「この子には発達障害がありますね」とアプローチすると絶対にいけないと言われます。なぜなら、その子に発達障害という原因があるから、生きづらさが生まれているという話になってしまうからです。

それに対して社会モデルという考え方は、難しさの原因は子供の側ではなく、自分たち社会の側にあると考えます。それをお母さん達にも話して、「これで遊ぼうかと思った10秒後には別の方向を向いていて、どうしたら良いか分からなかったです」と伝えて、「確かに家でもそういうことがあり、どうしたら良いですかね?」という話にしていくそうです。

障害と名づけるかどうかは別にして、その人に何かしらの特性があって、それを背負っていかないといけないという議論がありますが、じっとしているのが苦手な人を「特別な個性だね」という議論は、障害が個性に言い換えられただけです。むしろ社会モデルでは、その障害がなぜ問題化するかが重要です。例えば小学校でクラス全員、教師がいる前では座ってないといけないシチュエーションにおいて、それが問題化するわけです。しかし例えばニュージーランドの学校には机と椅子もないし、どうしていても良いから、その障害は問題にならないんです。

この問題にならない状況を構成することが社会の責任である、というのが社会モデルです。そこでは、同じ教室で同じ時間・同じ方向に座らないといけない、という枠を社会が強いているから、その中で障害が起きていると考えます。それに対して、枠を強いている側が一切問題化されず「じっとしていられない特性があるから問題だ」と、その人のせいにするのが医学モデルです。そうして「個性」という自己アイデンティティを逆に社会が付与してしまうという難しさがあります。

それに対して、環境の側が組み変わったり関わったりして、個性や特性という自己アイデンティティを問題化しないことによって、自我アイデンティティが支えられる可能性を、どうすれば考えられるでしょうか。

山内泰

vulnerabilityが許容される環境を作る

自我アイデンティティを支える場所アイデンティティ

社会モデルや環境の話をしたのは、最後の論点で場所アイデンティティという議論をしたかったためです。例えば高齢者が引っ越しした時に、リロケーションダメージ、つまり場所が移り変わることで高齢者には負担になります。今までは、リロケーションダメージの防止を機能的に考えていて、どういう部屋や素材が良いのか、というハード面の問題から考えられがちでした。しかし、介護領域の論文では、リロケーションダメージは「アイデンティティの喪失」とされ、場所アイデンティティのような表現がされています。

この話が面白いのは、アイデンティティが社会・他者の媒介の中で構成されている一方で、ミード的な議論だと身体に根ざした私は環境の中で位置づいていますね。この身体の中で培われたものは、環境との相互作用の中で汲みあげられるものでもあります。例えば、どんなに他人から見たらゴミ屋敷に見えても、そこにはその人の論理と秩序があって暮らしやすいんです。だから綺麗に片付けることは、衛生面では良くても、アイデンティティを大きく損なう訳です。

そこで問われるのは、「アイデンティティの喪失」と言ってもどんなアイデンティティなのか、ということです。それを考えた時、やはりこれは自我アイデンティティの方だと感じます。そうした場所・身体に根ざしたアイデンティティの基盤(場所アイデンティティ)について、津田さんの議論で言えば、ハビトゥスや身体図式の議論の中で論じられたことに繋がってくると思っています。その辺りはどのようにお考えでしょうか。

山内泰

ゴミ屋敷の例のように、どこかの場所にずっと住んで慣れ親しんでくると、私たちの底に埋め込まれている身体性と環境がすごく連動してきて、自分が生きる糧や軸になっていくことは大いにあると思います。ある場所に住んでいて歩いていると、ふとその場所独自の匂いがするように、マテリアルなものを、私たちは何らかの感性に基づいて受け取っています。つまり、物質的なものを何らかの情動で取り上げて、それが身体に紐づいて自分の記憶が構成される。その記憶に基づいて、今の自分が形成されることが往々にありうると思います。

それを発展的に考えていくと、環境を構成する物質的な存在と、自身の情動を帯びた身体、そして、物質的な存在を情動的な身体を介して受け止めること、それらの三項が連なって、我々のアイデンティティを作っている側面があると思います。

津田翔太郎
1 2 3 4