それはすごく可能性を感じるお話です。その関連でいえば、稽古において、最初に型を学んだうえでそこから自由になるというあり方が、ミメーシスにすごく似ていると思います。ミメーシスは、己をむなしくして対象に自分を開いていく、真似をしていく中からある種の自由闊達な領域を開くというか、完全に真似に閉じないようなところを行ったり来たりする話ですが、型を作っていくというのはミメーシス的な要素があるのでしょうか。
山内泰あります。「理解しなくてもいいから型に入ってしまえ」という発想です。内容とか理屈とかわからなくていいから、見よう見まねでいいから、型を真似ればいい。その型が身につくと今度はそれが土台になって、次のステップにつながっていきます。初心者にとって型は外からやって来て、自分の自由な動きを妨げるように感じますが、その型が身についてしまうと、今度はその型があるからこそ自由な動きが可能になります。
西平直成就の発想とコスモロジー
『稽古の思想』の中では「図と地」の話をされていて、型を極めるといわば図が浮かび上がってくるようだけど、そこから自由になることで、「地でありながら図である」というあり方になる。そうした状況は「成就」とも言われていますね。
山内泰成就という発想は、なにかの目的のために稽古するという発想とは違います。稽古それ自体で成就する。だから「勝ち負けなんて気にしなくていい」という言い方になります。そうした語り方で納得できる人もいると思いますが、多くの場合は何かのためにという目的があったほうがわかりやすい。そうなった場合、話がずれてしまいますが、輪廻転生というコスモロジーで考えると、老年期を過ごしている時期というのは、死んだ後の自分の種をまいていることになるのです。死後を延長していくという発想です。
10年前からブータンに行くようになったのですが、ブータンの社会ではその転生が共通感覚、コモンセンスなんです。死んだら、ある種の業を持って生まれてきて、業を果たして次に行く。だから年寄りたちはマニ車を回しながら、来世のために良い種を撒くのです。ブータンの尼僧と話していた時にネクストジェネレーションという言葉が出てきました。私たちの場合は将来世代のことを考えますが、彼女にとっては自分の来世の話なのです。そのコスモロジーの視点で考えると、年を取ったら、今が来世のために種を撒く一番いい時ということになります。
西平直柳田国男は、太平洋戦争で家の主人にあたる層が全部戦争でいなくなると、お盆に先祖の霊が家に帰って来るときに、迎える人が家にいなくなってしまうことに危機意識を持っていました。サイクルが切れてしまうことを日本の危機として論じていたという話は、有限の生に閉じてない形の生があります。それは超自然的な話のようですが、人類史を見渡すとコスモロジーがあるほうが普通で、それがなくなったのはここ数百年の話でしかありません。しかもブータンでは、コモンセンスとしてあるのですね。
山内泰彼らは転生を信じているのではなく、転生を生きているんです。
西平直「型にハマりつつもズレていく」ことにアイデンティティの豊かなありかたがあるとして、面白いのは、そうした豊かなありかたを、西平さんが『稽古の思想』のうちにも見出してらっしゃることです。西平さんのお話は、エリクソンの批判的な検討を通して西洋的な人間観の限界を見極める一方で、世阿弥をはじめとした東洋の身体論・芸能論から、私たちの感性に適ったアイデンティティ論を模索されているように思いました。ありがとうございます。
山内泰(2022年2月16日オンラインにて収録)