不可思議な「わたし」を巡る
型にハマれどズレていく−探求されるアイデンティティ (3/4)
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体が「気」が付く

アイデンティティは意識の問題だけでなくて、体とも密接に関わっているものです。西平さんは『稽古の思想』において「離見の見」について書いていますね。それは、自分が自分の体を意識している「我見」ではなく、観客の目を通して自分を見るという回り道のようなものだったと思います。自分が自分の体を意識するというのと、「離見の見」はどのように異なるのでしょうか。

山内泰

学生たちに話すときには三通りを書きます。まず一つ目が 'I have a body'「私は自分の体を持っている」で、ここでの体は私がコントロールできるものです。二つ目は、'I am in a body'「私は体の中にいる」で、ここでの私は、「骨を折ったら/熱が出たら、不自由になる」というように体に制約されています。それに対して三つ目は、'I am a body'「私は体である」で、そこでは、「体を持つ」わけでもなく「体から制約される」わけでもありません。「私は体なのだ」と気が付くという地平です。

世阿弥(室町時代の能役者、能作者)がこだわったのは、一世一代の大舞台で失敗できないとき、緊張したり自分のことが気になってしまう「我見」から、「私は体なのだ」「自然のままに動けばいいんだ」という地平にいかにもっていくかということでした。緊張して当たり前の場面で「緊張しないように!」というのは、「寝ようと努力する」みたいなもので、やればやるほど逆効果になる可能性があります。そこで世阿弥は弟子たちに伝えるときに、「私の目ではなく観客の目に私がどう映っているか」に意識を集中しろと言ったのです。観客に手伝ってもらえという感覚ですね。観客の目から見たらどう映っているか、そこに意識を持っていくことで、「我見」、つまり私の意識作用から離れてしまおうとするのです。

その時に「体の内側から湧き起こってくる流れに乗ればいいのだ」と世阿弥は言うのです。自分の肉体を意識するのとは違います。「気が付いている」という用語における主語は私ではありません。私が意識するのではなく、私の身体に「気」が付いていると言いますか。中国の仏典は、その状態を「照」という字を当てて、「自分の中に明かりがともる」みたいな意味で使います。しばしば英語ではイルミネイトという言葉で訳されています。自分の中でイルミネイトが生じるわけですが、それは対象化して意識するのではなくて、自分は体なんだけどもその体が眠っていない、イルミネイトするわけです。

西平直

'I am a body'は、観客の目線に手伝ってもらう形で、「私は体だったんだ」と気がつくことなのですね。「私が身体を意識する」のは能動的にできる感じがしますが、「気が付く」というのは能動的にはできない。体に起こってしまうものですね。

山内泰

能の本来の舞台は四方向周りが全部観客になっています。その舞台で舞う舞手は、前後左右全部から見られていることになります。ここからは想像なのですが、四方向からの視線によって持ち上げられるような感覚があり、それは恐怖と同時に快感でもあるようなもので、ある種の変性意識が起こりやすいのだと思います。だからそこに巻き込まれてしまい、そういう少し浮いた状態である自分を見ている、気が付くということになるわけです。

西平直

離見の見において「私が体だったんだ」と気が付くあり方は、自分の意識が及ばない自分に気づくというか、意識的にコントロールが及ばない領域のことだと思います。それはまさに、自分のイメージに自分が固まってしまう「我見」を、解きほぐす技法という感じがします。

山内泰

エリクソンの言葉はわかりやすく日常の感覚に近いですが、稽古の話はどこか特殊と思われがちなところがあって、それを何とか日常につないでいくときにエリクソンで考えたことが媒介にならないか、そんな期待をしています。

西平直

すごく媒介になると思います。西平さんは、「離見の見」みたいなものを場の全体エネルギーとして書かれていましたが、例えばサッカー選手が走りながら全体が鳥の視点で見えるような変性意識と似た感覚なのではないかと思いました。一方で、場の空気に流されているときには、「私は体」というところにも行ってないし、私が場のほうに逆に投げ出されている状況もあると思いますが、これらは離見とは違いますね。

山内泰

臨床家は「巻き込まれる」という言葉をしばしば使いますが、空気に流されてしまう感覚に近いです。流されてしまうのが一方の極で、もう一方の極に私が強くあるとすると、離見の見はどちらでもないという言い方をしたり、どちらも含んでいるという言い方をしたりします。

西平直

気の流れ

体の中から自ずと動き出す感覚のときは、何かしら周囲の環境との相互作用の中で動くということが起きていると思います。先ほどのエリクソンの話でも私が私だけでは成り立たず、何かしらの相互関係の中で出てくるという話がありました。能の場面ではどのようにとらえられているのでしょうか。

山内泰

ここからは理論の話から離れて私の実感になってきますが、その根底には「気」という言葉の世界観が一番なじむように思います。私たちはたまたま気が凝縮して、このように皮膚の内側にいますが、実は気は出入りしています。気の出入りが滞るから体に支障が起こるという発想です。その発想で行けば、場の全体エネルギーとは、気の流れということです。気の流れが舞の中には一番出てきます。

西平直

気の話というのは、東洋思想では基本的な考え方ですか?

山内泰

特に中国の伝統です。『養生の思想』を書いたときにそれを強く感じました。養生の思想には「家養生」という言葉があります。身養生と心の養生と家の養生があって、家養生は文字通り環境を養生しないと、本当の養生にならないということです。それこそ気の流れという発想で言うと、全部繋がっているということだと思います。

西平直

「環境を養生する」との視点は、人間が個に閉じていないありかたを示唆していて、私たちの実感にも近いものだと思います。でも一方で、「離見の見」は世阿弥のような優れたパフォーマーが念頭に置かれたものでもあり、そこに至るのには、よほどの稽古が必要なのではないでしょうか。

山内泰

確かにそんなに簡単なものではないと思いますが、もう一方で、離見の見に至ったと誰が判定できるのかと考えると、人それぞれの段階で小さな離見の見というものを認めてもいいのではないかと思います。

西平直
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