アイデンティティは一般に「自己同一性」と訳されます。同一性とは「A=B」のイコールのことで、だからアイデンティティは「私は〇〇だ」と自分が何者であるかを問うものです。それは、私たちが生きていく上で重要な基盤を成すと同時に「何者かでなければならない」という圧力にもなりえます。また役割や属性、人との関係だけに閉じておらず、より豊かな位相に開かれたかたちで成り立ってもいます。
こうしたアイデンティティの複雑なありかたについて、体系的に論じたのがエリクソンという心理学者です。今回はエリクソン研究の第一人者である西平さんと、アイデンティティのしくみを探求していきながら、西平さんの最近の研究『稽古の思想』も参照し、型にハマれどズレていくありかたにも問いを進めていきます。
「アイデンティティ」のしくみ
self(自己)・ego(自我)・I(わたし)
「アイデンティティ」概念を提唱したエリクソン(20世紀アメリカの心理学者)は、「わたしと他者(他者を知覚する主体)」と「わたしと内なる他者(知覚される客体)」という二重性、つまり「主体でもあるとともに客体でもあるという、この結び合った感覚」に「アイデンティティ感覚の根っこ」があるとしています。一方で、ライフサイクルにおける発達の諸段階において、他者は「意味ある他者」として、超越的な他者であるようにも思われます。こうした中で、〈わたし〉が成り立つ局面では、どのような関係が念頭に置かれているのでしょうか。
山内泰まず、self(自己)とego(自我)とI(わたし)についてですが、エリクソンの語り方はこうです。self(自己)のカウンタープレイヤーは、others(他者)です。ego(自我)のカウンタープレイヤーは、超自我やEsで、精神分析でいう心の機能みたいなものです。それに対してI(わたし)のカウンタープレイヤーは、dignityやdivineと語られます。これを「聖なるもの」と訳すべきか、ちょっと微妙ですが。例えば、キルケゴールは「神の前に一人立つ」といいますが、それに近い感覚がこのI(わたし)だと思います。意識ですが、しかもそれが対象化されないのが、エリクソンの言いたいI(わたし)なのです。彼にとって何が問題かというと、どのような関係において〈わたし〉が成り立つのかという問いが人生のステージによって違うということです。赤ちゃんにとっては、母親との関係が決定的に重要であるけど、思春期になると例えば友達とか、もう少し大きくなると恋人になります。つまり、〈わたし〉は誰かとの関係において成り立つのだけど、その誰かはライフステージによって異なるということを、エリクソンは強調したのです。
西平直現実か超越かというよりは、常にライフサイクルの中で意味や他者が変わっていくことで、毎回違う他者との関わりの中で、〈わたし〉が成り立つということですね。
山内泰エリクソンの8段階のエピジェネティックチャート(漸成図式)をパッと見ると幼児期決定論に見えてしまいますが、あの図の中にあるたくさんの空欄は、変わる可能性があるということを示しています。例えば、母親から虐待された幼年期の経験を持つ人は、学校の先生との関係の中で、その過去の経験を語り直すことができるというような理解です。
西平直アイデンティティは一人で確立できない
egoは基本的にはある種の生存適応作用として出てくるようなもので意識できない。エリクソンの場合は、例えば「私は会社の社長です」のように、社会的な役割によって自分を規定していくセルフアイデンティティとは違うアイデンティティの在り方を考えたときに、「この私(ich)」というあり方は、もう一つのアイデンティティになるようなあり方なのでしょうか。
山内泰そこがとても微妙です。エリクソンがアイデンティティという言葉を使うときには、必ず何かと何かのアイデンティティです。全部はぎ取っていった後に、一人だけでアイデンティティを作ることはありません。アイデンティティというのは一人では確立できないという点が重要なポイントになります。しかし、他者から認められるだけでも足りなくて、それを自分のものとして引き受けるというか、それを誇りに感じるというか。そういう「他者からの視線」と「自分の中での自己肯定」がかみ合い、アイデンティファイすることがアイデンティティということになります。
西平直期待される役割と自分が自己肯定感とともにそれを同一視するというようなあり方をセルフアイデンティティといってよいのでしょうか。
山内泰よいと思います。しかし、エリクソン自身は明確に規定しないので、仕方がないからそれをセルフアイデンティティと呼び、社会的役割から解除された私を自我アイデンティティと呼ぶということになります。
西平直社会的な役割のほうをセルフアイデンティティと仮に呼び、社会的な役割が解除されたあり方をエゴアイデンティティとした時に、何かと何かのアイデンティティを結びつけている〈わたし〉というものが根っこにあるという位置づけでしょうか。
山内泰それはかなり厄介な議論です。エリクソンを擁護すれば、役割を解除された私をアイデンティティとして語らなかったのは正解だと思います。というのは、この私の実感もやはり何かとの関係の中で生じてくるからです。ここで能動的という言葉が問題になってきますが、関係の中で自ずから生じてくるそれを能動と呼ぶかどうかという問題です。
西平直エリクソンが役割を解除したあり方をアイデンティティと呼んでいないことの意義はどういうところにありますか。
山内泰他者との関係性を断ち切った独立した個人や独立した自我を前提にしないということです。この点は、アイデンティティという言葉がしばしば誤解される点です。アイデンティティというと、なにか自立する、一人で立っていられるというイメージがあると思いますが、むしろ、逆です。エリクソンは、一人では立てないということを言いたかったのです。そこまで擁護したうえで、エリクソンの議論は、ある種楽観的なところがあります。他者からの期待と自分がしたいと思うことが合致することがあり得ると考えたのですが、実際にはそのようなことは、滅多にありません。だからアイデンティティの混乱とかアイデンティティの葛藤という言葉のほうが、生き生きと使われるようになったのです。それは正解だったと思います。
例えば、LGBTにおいて、アイデンティティが一致しないとか混乱するというのは非常に適切な使い方だと思います。そうでない時は、性的アイデンティティが一致しているという言い方でとらえられるのでしょうか。私は、心理学の人たちが盛んにアイデンティティの確立について、データをとって実証的に研究しているのはおかしいと思っています。
西平直探求されるアイデンティティ
エリクソンは調和的にとらえていたかもしれないけれど、アイデンティティは本質的にはズレているということですね。
山内泰そうです。近代の社会になってアイデンティティの葛藤が大きくなったといわれますが、では前近代の社会ではアイデンティティが安定していたのでしょうか。確かに近代社会とは違うあり方をしていたかもしれませんが、今とは違う葛藤があったのではないでしょうか。前近代の時期はアイデンティティが確立していたのに、近代になって崩れてきたというのは、違うのではないかと思います。
西平直西平さんはそのズレの実相をどのように見ているのでしょうか。
山内泰一番の原風景ですが、他者から期待されることと、自分がこうしたいとかこうであるとのズレが大きいです。
西平直私と他者というものが他者からの期待の話だとすると、今の自分のイメージというのは私と内なる他者との関係でしょうか。
山内泰そこはかなり厄介です。対象関係論という領域がありますが、いわば個人の心の内側の話です。私の内側に私と他者イメージがあるわけです。実際は「私の内なる私」というものがはっきりあるわけではないので、その意味では自己イメージとしか言いようがないのかもしれせん。それを超えてしまうと、現代思想の人たちは「欲望」という言葉に置き換えているように感じます。
西平直