ライフサイクルでの意味ある他者との相互関係において、ズレを一致させようとする動きは生じつつも完全に一致して調和するということはなく、また意味ある他者が出てきてドンドン更新されていくというイメージでしょうか。
山内泰そうです。エリクソンはquest(探求)という言葉を使って、quest for identityと言います。私は、アイデンティティはquest for identityのことだと思っています。探求することがなくなったら、それは枯渇したアイデンティティではないでしょうか。少し挑発的に言えばアイデンティティというのは、かろうじて折り合いをつけようとすることです。同時にその試みが次のズレを生んでしまうような、そんなイメージです。
西平直ズレの抑圧
そういうあり方だとすると、selfでもegoでもない〈わたし〉という区分は、今のような折り合いのなかで成り立つ感じがしました。アイデンティティの自己超越の話を『人間学』の最後のほうでされていますが、ここで西平さんが問題にされていたのは「疑似種化」です。アイデンティティの「疑似種化」というは、「アイデンティティが一致しない」感覚が失われたあり方、本当はズレているにもかかわらずズレが抑圧されているあり方を意味していると思うのですが、そういう理解でよいでしょうか。
山内泰それでいいと思います。典型的には、ナショナリズムであるとか民族中心主義がそれにあたります。少しエリクソンを離れますが、絶対の真理という確信を持った信仰と、別の絶対の真理の確信を持った人が出会った時にどうなるか。例えばキリスト教の文脈では、「この聖書の教えが絶対に正しい。すべての人にあてはまる」となります。ところが、イスラム教では「コーランの教えが絶対に正しい」となります。そして、このように絶対に正しいと信じていると、強いアイデンティティになります。この教えこそがすべての人々を自由にする、幸せにすると信じ込む。それを「疑似種化」の傾向と言います。ですから、独善的であり、偽の種として私の教えが人類すべてにあてはまるということです。ただこの「疑似種化」という言葉は、全然生きていないと思います。エリクソンはもっと別の言葉で言えばよかったと思います。
ここで考えたいのは、絶対的真理と絶対的真理がぶつかり合ったときに、対話の余地がなくなってしまうという点です。その時に、自らを相対化してみること、疑うという言い方をしていいかどうかは微妙ですが、理想的には私の信仰とあなたの信仰を同時に認めることができるような地平が欲しいのです。
西平直独善的になったときに、疑うというか、何かしらの相対化が起きる契機が非常に大事なポイントです。ライフサイクルにおける意味ある他者は、そういった自己完結的なあり方を揺さぶってくるようなもの、ちょっとした相対化や疑いというものを促してくる契機になるのでしょうか。
山内泰エリクソン自身がこういう話をした時は、個というよりは民族とか国家とかグループのことを話しています。彼のアイディアは、超越的アイデンティティを設定しますが、それは言ってみれば不可知論です。誰にもわからない。いかにキリスト教が「これこそが絶対だ」と言っても、超越的アイデンティティには至れないのだという形で、エリクソンは相対化の契機を見出そうとするのです。この点はすごく共感を覚えるのですが、もう一つエリクソン自身の中にあったと思う可能性は、「人は皆子供だった。無力な存在であり、絶対の確信など持っていなかった、それは人生の中で徐々に作られてきた」という理解です。その意味では構成主義に近くて、本質主義的にアイデンティティを考えずに、「皆弱かったじゃないか」と言うわけです。私がそれを実感したのは、「人は皆、胎児だった」という点でした。いつ堕ろされても文句が言えない、無力で支えてもらうしかない存在です。キリスト者もムスリムも、恵みを与えてもらう以外、生き延びることができない胎児だったではないかということです。
西平直「皆胎児だった」という視点は、「環境の支えなしには成り立たない存在だったにもかかわらず、なぜ自己完結的に確信をもって絶対ということが言えてしまうのか」を問い直していますね。西平さんはアイデンティティの自己超越について論じています。アイデンティティを探求していくあり方を自己反省的(セルフリフレクティブ)と言っていたと思いますし、そのプロセスそのものが自己超越のプロセスということでしょうか。
山内泰エリクソンで考えていたときは、リフレクティブという言葉にかなり期待を持っていました。ですが、今はまず主体が明確にあり、そこから出発してリフレクティブになるというありかたに違和感があります。そんなに能動的ではないのではないか。「なんとなくそんな気がする」というところから始まるような感じをもっています。
西平直リフレクティブという言葉自体が、強い能動性を前提にしているということですね。
山内泰はい。近代哲学の枠組みでいえば、自己反省という言葉から出発するのが適切だと思います。でも、そこから離れた地平を想定していいならば、この言葉にこだわる必要はありません。むしろ足かせになってしまいます。
西平直「型」にハマれどズレていく
稽古の型としてのアイデンティティ
それではどのような契機で、自己超越や自分が閉じているあり方に対して、揺さぶられ解きほぐされていくということが起こるのでしょうか。
山内泰話が飛んでしまうかもしれませんが、稽古の「型」という言葉があります。アイデンティティは一つの型だとすると、一つの型にはまるように稽古するのはアイデンティティを求めていることになります。でも、そこに入っていると窮屈になって、そこから離れていくということがある。「アイデンティティを超越するきっかけ」とは、型から離れるきっかけは何かという質問と重なると思いますが、私にはそういう問いが生じません。なぜなら、一つの型のまま全部うまく行くとはとても思えないからです。その話をした時に学生が、「先生の話を聞いていると人生というのはみんな失敗するように聞こえる」と言っていましたが、私としては、失敗しない人生なんて考えるのかと逆に驚いていましました。
西平直現代では多くの人が、アイデンティティという型に自らをはめるように生きていると思います。型として生きることが、社会の中で自分の立ち位置を作ったり、幸せを感じることができたという実感を伴っているんだけれど、実は型の中にもいられるし型から外れてもいられるというようなある種の融通無碍さにしていくにはどうしたらよいのでしょうか。
山内泰まさにそこで稽古という言葉を使いたいのです。自分を鍛えるというよりも、自分を柔らかくする稽古です。
西平直私の濃度を下げる
先ほどの、安定しているアイデンティティを超える契機ですが、ユング(スイスの精神科医、心理学者)は人生モデルを放物線で考えます。人生の前半は、一つのアイデンティティを確立するために他のものを捨てていく、選ぶために捨てていくわけです。捨てることによって、一つの側面だけが自分だという形で安定するし、実力が発揮できます。いわゆる、迷わないということです。それに対して、人生の後半は、自分が捨ててきたこととつながりをつけなおす。ある意味で、迷いなおすことです。ただ迷って倒れてしまうのではなくて、迷いながら自分を柔らかくしていくというか、「私の濃度」を下げていく。「純粋な私」というものが少し解けていくというか、全体の濃度が薄まって行くようなイメージです。この降りていくプロセスは、大きく言えば死の準備になります。それは結局自分を薄めていくというか、自分と他者との壁を緩めていって、最後は明け渡していきます。そこに先ほどのアイデンティティという言葉を入れてみれば、アイデンティティは放物線の一番の山のところを言い当てようとしたと思います。
西平直放物線はすごくなだらかで、グラデーションのように移り変わるはずですが、現実には診断名として病が宣告されたとか、要支援1とか要介護1といった医療的あるいは介護的な社会制度のカテゴリーとして位置づけられることで、先ほどのセルフアイデンティティのように機能してしまうことがあります。
山内泰例えば病名の時には、病気であるかないかという二分法でレッテルになってしまいます。例えば、あるとないの間に10通りくらい名前をつけてたくさんあると、大したことないと思えるかもしれません。
西平直概念をたくさん作っておくことで、意味を分からなくさせるということですね。
山内泰そうです。親しい精神科医が人には三つの精神病があると言っていました。統合失調症になるタイプと、神経症を病むタイプと、普通の人です。潜在的にはみんな危ないので、普通の人も軽度な病気だというわけです。
西平直正常と異常の区別そのものが、一様に名指しをしている点がそもそも問題なのですね。西平さんの話によれば、アイデンティティは本質的にズレていて何かしらの不都合を抱えているもの。だからそのすべての不都合に対して、むしろ何かしら名指していくことで、全体を相対化してしまおう、と。それもまた、アイデンティティの本質的な話です。
山内泰健康と養生の文脈ですが、未病という言葉を聞いたことがありますか。まだ病気としては出てないけれど、未病の段階で休む。「今日は未病のために学校を休みます」と言えるようになるといいと思います。
西平直