公と共と私たち
協働する私たちのコミュニティストーリー (4/4)
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自分たちを支える地域・環境にコミットする協働的主体

物・環境とコミュニティの相互変容

今のお話を受けて、最後に宮崎さんが書かれているコミュニティ・エンパワメントアプローチについて伺いたいと思います。コミュニティはメンバーにとって抑圧的にもなるとされますが、その抑圧的コミュニティを再構成して自立と関連させるアプローチとは、人間同士だけではないように思います。例えば独居して孤立している人も、その形で能動的に自分の生活を構成しているとも言えますね。その時は、先ほどの觔斗雲のように、物や環境の次元も含めて、その人がコミュニティを構成しているとも言えるのではないでしょうか。

山内泰

他者関係はもちろん大前提で、自己は他者との関わりなしにはあり得ないことは、すでに共通理解になっていると思います。私はそのような他者を「自己内他者」と呼んでいます。昔に読んだ心理学の本のタイトルが『私の中の私たち』(乾孝)だったのですが、私の中にはたくさんの私たちがいて、「私たち」として初めて「私」が成り立つという議論なんですね。これは個人を考える出発点で、私たちが構成するコミュニティや仲間もそうですね。サークルの仲間が私を構成していると言ってもよくて、仲間の声が私を構成して、私がその声を代弁することもあります。

今の問いは、コミュニティの構成には色々なアーティファクト(人工物)が介在しているということですね。そこには記憶と想起の問題が入ってくると思います。人工物は何らかの意味を持って生みだされたものであり、活動の痕跡を持っていますね。つまり、その背後には、それが道具として利用される行為や活動の文脈があります。活動によって、その人工物の中に活動の文脈が刻み込まれて、私たちの記憶を呼び覚ますものにもなっていきます。

このように記憶を共有するという問題が重なってくるので、コミュニティ・ストーリーという時には、やはり記憶の問題は欠かせません。どんなコミュニティも時間性を持っていますが、その時間性を担保するのが記憶だともいえます。しかし、その記憶は全く主観的にあるのではなく、物との関わりも当然に持っていて、地域社会のコミュニティで言えばランドスケープがそうです。プレイスアタッチメント、場に対する愛着という言葉もこれに関わっています。想起によってコミュニティは時間的に引き伸ばされたものとなり、風土と言える意識が地域社会に生まれるのもこうした関連に基づくと思います。

そこまで広げた時に、コミュニティの定義がどうなるのか。コミュニティ・ストーリーには、時間や歴史の意識が不可欠だと思いますが、コミュニティ・ストーリーのレベルとコミュニティの定義をどう考えるかは、これからの問いになると思います。

宮崎隆志

私たちも市営住宅の引っ越しを手伝う中で、リロケーションダメージがよく言われます。それはアイデンティティの問題という文献もあります。アイデンティティもまた環境的な要因で、無意識の基盤として日ごろ意識していないけれど、自分の暮らしを支えていて、それが失われることが、非常に大きなポイントになるのではないでしょうか? こうした無意識の基盤である環境的な面も、人間同士と同じく矛盾のレンズになるのではないかと思います。

山内泰

環境という点は、その通りだと思います。環境は、主体があることで環境になります。だから主体の活動によって構成されるものが環境だと私は理解しています。活動は文学的なものや日常的な暮らしなど多様な形態をとりますが、環境は必ずそれらの活動とワンセットで構成される。逆に言えば、活動のあり方が変われば環境は変わるし、環境のあり方を見ることで活動のあり方が分かるという、相互に循環する関係だと思います。

他方で、その活動によってコミュニティが成り立つのですが、コミュナルなものを生み出す鍵は協働(コオペレーション)です。活動が環境を構成している一方で、コミュニティを形成する協働の過程では環境をも何らかの形で共有しています。だからコミュニティ・ストーリーが共通の基盤だとすれば、そこには環境も含まれているはずです。

そう考えれば、環境を抜きに人間は存在できないし、他者の存在と同じように環境との関わりを抜きにして自己や人格は作れないと言えます。そしてまた、環境も人間の活動によって構成されるものだとすれば、環境への理解の深さがコミュニティのあり方を規定する要因になると思います。

宮崎隆志

協働の中で生まれる、矛盾を分かち持つ主体

そこでは集団的主体は、主体が觔斗雲のようなものに乗っているあり方を総体的に指し示すあり方でしょうか?

山内泰

觔斗雲の例で言えば、皆が載っている基盤自体が、実は自分たちが作ったものであることが意識され理解されることが大事で、それが動かなければ自分たちの作り方が悪かったことになります。加害責任も含めて、単なる自己責任としてとらえるのではなく、社会システムの下で、そのような帰結を招かざるを得ない理由を意識して、どう皆で作り直すかを考える局面は、集団的主体の形成に即してしか語れないですね。

宮崎隆志

集団的な主体という視点があれば、自分たちが作っているものだから変えられるということですね。

山内泰

そうです。それはコオペレーション(協働)の経験の中で初めて生まれてくるものです。例えば、アメリカの民謡に「橋を作ったのは、この俺だ」という歌があります。「道路を作り、家を建て、この国を作ったのは俺たちだ」というような労働者の歌です。自分たちに必要なものを自分たちの力で作り上げてきたという労働者の誇りを歌っています。協働の経験は必ず自分たちが作り上げた経験になるはずです。その皆で作った経験が、集団的な振り返りをするための基盤になり、その意味を皆で読み解くことができれば、その時に「主体が集団的に形成されている」と言えると思います。それを個人のレベルで分析したら、個人の意識変化はもちろん抽出できます。しかし重要なのは、その個人の意識変化が同時多発的に、あちこちで同じように起こるということです。つまり協働は個々人の変化が相互にシンクロしていく場を生み出していくんですね。

そこで決定的に大事なのは、協働の内部で生じる摩擦です。協働を続けていくと、最初は皆が共通の問題のために同じ関心を持って努力したはずなのに、各論に入るとそれぞれの価値観や問題理解の程度等の差異が顕在化し、内部摩擦が起き場合によっては対立・分解します。それはコオペレーションの中で、日常を支配するより大きな、不可視であった矛盾が噴き出すからです。

しかし、この種の矛盾こそが、レンズになって、自分たちの働き方や働く意味をもう一度問い直す可能性を持ちます。そしてそのレンズを通すと、生きることの意味や幸せとは何かという根源的な問いにまで遡及せざるを得なくなる。それを潜り抜けた時に、「働く仲間」という言葉が自然に、つまり自分たち自身の言葉として出てくるのだと思います。それが意味するのは、諸個人が抱える矛盾という重たい荷物を分かち持つことではないでしょうか。そうした協働の経験を通して生まれた「皆のもの」をベースにして、新しい公共性が展望できるのだろうと思います。

宮崎隆志

協働の経験の中から、個人の生活自体が私的な枠を超えて、コミュニティの持つ矛盾や不具合を映し出し変化させる公共性の空間があるとも言えますね。本日はありがとうございました。

山内泰
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宮崎隆志

北海道大学名誉教授
大学院教育学研究院では、地域社会教育の学習論をテーマとしていた。

山内泰

一般社団法人大牟田未来共創センター理事
ドネルモ代表理事
株式会社ふくしごと取締役
東京大学先端科学技術研究センター特任研究員