集団的主体のコミュニティ・ストーリーを写し出す鏡
コミュニティ・ストーリーの中で生きている集団的な主体
ダブルバインドを突き詰めていくことから、日常の違和感の背後にある世界を理解していく。それは意識・無意識に関わらず自分を支えている地域・環境や他の人との相互作用の中で、人間を捉えていると思います。
次に伺いたいのは、その個人と集団の関係の中で、「個人が集団的主体に置き換えられる」と宮崎さんが言われる状況についてです。宮崎さんが言われる集団的主体とは、共同体や環境の中に埋め込まれた個人のあり方でしょうか。それとも集団それ自体が主体的な動きをするという意味でしょうか。
山内泰私が考えている集団的な変化とは、変化した個人がたくさん集まっていることではありません。むしろ諸個人の意識や考え方には多様性がありながら、そのベースになっている次元が変動することです。
比喩で言うと、孫悟空と觔斗雲のようなもので、孫悟空自身が空を飛んでいるのではなく、乗っている雲が変動することで悟空も動いていきます。集団的主体は、その觔斗雲を皆で作り上げているイメージです。例えば100本の鉛筆で支えるように觔斗雲を作っているとすれば、個人単位で見ると一本ずつ長さも違って多様性があるけれど、全体の変化が起こる場合があるということですね。
これについては、レヴィ=ストロースの構造主義もヒントになると思います。構造主義は神話を重視しますよね。神話を使って、民衆は大きな世界を読み取り、理解しています。大きな世界が理解されれば、小さな世界の個々の出来事が意味づけられて、秩序が生まれ、互いにバランスを取った状態が生まれます。意味づけができれば、意味と意味の関連もとれるし、その中で個別に振る舞っている人たちも、トラブルがあったとしても何らかの形で解決できます。
その神話にあたるところは仮説的に「コミュニティ・ストーリー」という形で描けないかと考えています。つまり、コミュニティを構成している日常生活者は、コミュニティ・ストーリーに基づいて、大きな世界と自分の私的な暮らしを結び付けているのではないでしょうか。一見すると、私的で個別化された生活間の関係性も、コミュニティ・ストーリーに従って緩やかに調整されているということです。
例えば、今回のコロナ禍では自治体が大きな役割を果たしました。ワクチン供給にしても医療体制にしても、どの首長も住民の命を守ることを最優先にして、日常のあり方を見直していくと言いました。現代社会の人たちからすると、生命は私的でプライベートな世界の中で守られて再生産されるものですが、コロナの時は自治体が機能を発揮しなければ命を守れなかったですね。その関係性がはっきり見えたことで、自治体が自分たちの意思に従って動いてくれるなら、自分たちの生活を守る最大のインフラだと、市民も期待しました。「ウチのマチでは...」と誰もが自然に語りました。
こうした語りは、マスターナラティブと言ってもいいかもしれないですが、そう言うと個別の語り(ナラティブ)の背後にあるもので、個人レベルの分析にまた吸収されてしまう気がします。そうではなくて、日ごろは意識しないけれど、コミュニティに共通する語りを生み出すような枠組みや基盤があると考えられます。それは例えれば觔斗雲であり、レヴィ=ストロースの神話にあたります。私たちの日常生活を意味づけ、秩序付けるものは、世俗化される前は宗教から与えられていましたが、世俗化されてからは私たち自身が作り上げてきたはずです。
それゆえに、これまでに私たちが作り上げてきた暗黙で共通のコミュニティ・ストーリーには、これからも変動があり得るはずです。コミュニティ・ストーリーが変化するとすれば、その変化をもたらすような学習も起きうるのではないでしょうか。
民衆のスケールで考えた時、民衆意識は日常生活レベルで見れば、簡単に変わらない保守的なものです。けれども何十年という単位で起きる長周期の変動があって、その変動の中で個々の生活者の意識や学習も展開していきます。私たちが前提にしている社会のシステムは、自然―人間―社会の相互の間に矛盾が存在する限り、こうした長周期の変動を避けられず、地球環境問題や戦争などという形でシステム側から噴き出す矛盾は変動の重要なきっかけになります。
その時にどういう学習を組織するのかが問われていると思います。その組織の仕方が未熟で粗野なものであれば、専門家による支配が出てきたり、国家主義の方向に行ったりするかもしれません。例えば戦前のように、皆を救う大きなストーリーを与えるものが出てくれば、日常生活はそこに根こそぎ持っていかれるかもしれません。システムの矛盾が顕在化することによる劇的な変化を制御できるような民衆の側の思想形成にかかわる学習が焦点となります。
宮崎隆志コミュニティ・ストーリーを写し出す鏡
そのようにコミュニティ・ストーリーが変化しようとしている時に、それをどのように自分たちのものとして再構成していくか、という問題でもありますね。
山内泰社会運動に対して問われているのは、まさにそこだと思います。例えば北芝では「暮らしづくりネットワーク北芝」という中間支援のNPOを作りました。貧困や生活困窮の問題も含めて地域づくりを目に見える形で行っていますが、その一方で担い手たちは被差別部落の原体験をした人たちとの関わりを常に意識しています。つまり反貧困や生活困窮に対する社会運動という点では他のNPOと同じ地平で評価されるけれど、もう一方の軸には「村」があります。自分たちの運動は「村」の人たちの声を本当に代弁しているのか?あるいは、「村」の経験や人間解放の願いをさまざまな形で社会的に表現しているけれど、その表現には本当に意味があるのか? それを考える時の評価軸は常に「村」にあるんですね。
このように、暮らしづくりネットワーク北芝は社会運動ですが、それが「村」のコミュニティ・ストーリーと共鳴しているかを問い続けています。それが上手くいけば、相乗作用が期待できて、コミュニティの日常生活を意味づける営みが社会運動として表現され、今度はそれが鏡になって自分たちの日常を改めて読み取ることもできます。そうした日常生活と社会運動の相互連関ができていけば、社会システムの矛盾を解決するための新しい状況も生まれてくると思います。
逆に、社会運動の側が啓蒙主義的な立場に立つとうまくいきません。水俣病との関わりで栗原彬先生がよく引用されることですが、石牟礼道子さんの『苦海浄土』の中に、安保のデモ隊が漁民のデモ隊と出会った時の出来事が記されています。先頭でマイクを持った人が「皆さん、漁民のデモ隊が安保のデモに合流されます」と歓迎のメッセージを出しました。栗原さんからすれば、それは逆で労働組合や学生運動の側が漁民の運動の中に入っていかないといけない。『「存在の現れ」の政治』という本で書かれていますが、存在そのものの世界の中に運動の側がどれだけ入っていけて、存在の現れとしてストーリーを体現するものになっているかどうかが問われるんですね。
宮崎隆志啓蒙ではないという話は、非常に大事ですね。水俣のエピソードでも、自分たちのやっている運動に漁民が入ってきてくれたという啓蒙主義が問われていました。
その逆に北芝では、存在の現れやコミュニティ・ストーリーが、社会活動を通して表現されたり再構成されたりしています。そこで当事者の人たちだけがコミュニティ・ストーリーを構成するのでなく、活動する人が一緒に構成する仲間になれるかどうかなんですね。
山内泰そうですね。北芝の経験は自らを開いて、被差別の経験からやむにやまれず始まった相互扶助・助け合いの仲間意識や贈与的な関係の現代的意味を再評価していくプロセスでもありました。その再評価が可能になった条件は、やはり暮らしづくりネットワーク北芝の活動なんです。その形で表現してみたら多くの人が共感してくれた。福島との運動とも繋がっていくし、釧路のNPOや和歌山の社会福祉法人とも繋がっていきました。すると北芝の「村」の中では、プリミティブな形態であった贈与的な関係が持っている普遍性が手に取るように分かるわけです。暮らしづくりネットワーク北芝の社会運動が鏡として色々なものを写し出すことで、自分たちの経験の意味もより深く映し出されるようになるという相互作用が見られると思います。
宮崎隆志鏡が写し出す公の再構成
私たちの問題意識も、公を再構成する時に投票や議員への働きかけとは別に再構成する形もありうると思います。その意味で、存在の現れとしての地域に社会運動がどう入っていけるかが重要ですね。
山内泰今でも、「公」と言った時に、まず初めに行政と理解されがちです。しかし行政・自治体職員のものの見方や考え方が変わっていけば、栗原さんの言う「存在の現れ」とシンクロしていく。そのためにはコミュニティ・ストーリー自体が変動していくことが重要なのだと思います。
最近の事例では東近江市の「魅知普請曼陀羅」が有名ですね。元自治体職員の方たちがコーディネーターとして地域の色々な人たちや活動を縦横無尽に繋ぎながら、制度やリソースを使いこなしています。例えば、図書館は地域の多様な市民活動を繋ぎ支えるインフラとして機能しています。そのようにして、コミュニティ・地域が、社会運動と連動しながら「存在」を現すもの高まってきた時に、行政のあり方も変わってくるはずです。行政のシステムや政治の変容には時間を要しますが、それに先立ち、社会運動との相互作用によって、地域の人たちの価値観が大きく動き始めているという気がします。
そのような変化は、ミュニシパリズムのように、日本や世界のあちこちで起きていると思います。その時に、住民・行政・NPO・社会運動など色々なアクターが皆で作り出している空間を「パブリック」や「公共圏」と言ってもいいのかもしれません。それは決して狭い意味でのポリティクスの場ではないんですね。
宮崎隆志