今ある規範を乗り越える「成年」への道
こうしたカントの議論を受けて、フーコーも理性の公的使用が重要だと主張しています。ただし、その際彼は、その公的使用について二つの道筋を考えているように思われます。一つは、伝統的な主権のシステムにおいて公的な主体として振る舞えるよう理性を使用することです。この場合、カント自身がその道筋を歩んだように、「人間の理性とは何か?」、「人間の本性とは何か?」などと考えて、人間の規範を何とか導き出そうとし、実際それに同一化していくことになります。
もう一つは、フーコーがカントの読み直しを通じて考えた理性の公的使用です。そこではもはや、上述のような人間の規範に同一化するのではなく、そうした規範が歴史の中でどのように成立し、機能してきたのか、またそれは本当に必然的なものなのか、普遍的なものなのかを検討していきます。そしてもしそうでないなら、その規範を退けて、これまでとは別の存在へと自らを新しく作り上げていくのです。
このように理性の公的使用には二つの道筋があるのだとすれば、未成年状態からの脱出についても、行き着く成年には二種類のものがあるのではないかと思います。一つ目の成年は、与えられた人間の規範に同一化し、既存の公共空間において「理性的で自律的な主体」として振る舞おうとする存在です。これは実際カント自身が目指していたと考えられてきたものです。
二つ目の成年は、フーコーがカントの読み直しを通じて問題にしたものです。そこでは、所与の人間の規範が本当に必然的で普遍的なものなのか、歴史の中でたまたま作り上げられたものではないのか、といったことが批判的に吟味されます。そうした人間の規範とは、カントの超越論的哲学の用語で言えば、認識のアプリオリな諸条件ということになりますが、そうした諸条件が実は、歴史的に成立したアポステリオリな諸条件、偶然的で特殊的な諸条件ではないのかということです。そしてもしそれがそうなら、そのような人間の規範を侵犯し、乗り越えて、自らの存在をおのれ自身で新たに練り上げていく、創造していくことが重要になるのです。そこにはおそらく、ニーチェの超人思想の影響が見られると思います。「超人」とは、まさしく文字通り、人間を乗り越える者という意味です。人間のパラダイムを乗り越え、それに押さえつけられていた生の活力、創造力を解放し、自由に展開させることができる存在――これが二つ目の成年です。
この後者の成年に関して、フーコーは「実験的な試み」だと言っています。その仕事は偶然性に開かれたものなので、絶対に良いものになるとは保証されていない。けれども、少なくとも、外部から与えられた規範にただただ服従するのではなく、知る勇気を持って、自分の頭で考え、おのれの存在を自分自身で作り上げていくことはできる。たとえその実験的な試みがうまくいかなかったとしても、まずもってそうした自主的な営みこそが重要なのだと思います。
藤田公二郎ふてぶてしく存在する勇気を持つこと
フーコーが言うように、「別の仕方で存在できる」ことを示す人がいることで、別の仕方の知と権力ができていけば、近代の既存システムの中で色々な困難を抱えた人が、別の主体化がなされるとも言えますね。それは万人に必ずしも求められなくても、それを人が考えようと意志することはできるように思います。
山内泰そうですね。そのように意志することはできると思います。ただし、意志にもやはり二種類あると言っておかなくてはなりません。先ほど、理性の公的使用には二種類ある、成年には二種類あるという話をしましたが、今回もそれらに対応するような二種類です。一つは、「理性的で自律的な主体」、つまり既存のシステムの大人が持つような意志です。彼らのそうした個別的な意志が、いわゆる社会契約を交わし合うことで、一般意志を立ち上げ、主権的システムを構成することになると言ってもよいかもしれません。しかしながら、そうした主権的システムには入っていけないような意志、そこからは弾かれてしまうような意志も存在しています。フーコーはそうした意志をも問題にするために、ニーチェを参照しつつ、「知への意志」について論じました。まさしく超人が問題になるときに鍵となってくる意志です。この二つ目の意志を支えにしつつ、別の可能性へ向けて自ら考えようと意志することが重要なのだと思います。
だからこそ今一度、「知る勇気を持て」という啓蒙の標語に立ち返ることが必要なのだと思います。自分の頭で考えることが大事なのであって、他人の意見に盲目的に従ってはならないのです。外部から押し付けられた人間理性の規範に同一化する必要はありません。それぞれにはそれぞれの理性があるのであって、各自が実験的な試みとして、それを自由に展開させていけばよいのです。中には、フーコーが「狂気」として問題にしていたような理性もあるでしょう。狂った合理性というのは、たんに支配的な合理性の規範から見て、そこから逸脱しているというだけのことです。それはつまり、「たとえ所与の規範から逸脱したとしても、おのれ自身で考え、存在し続ける」という不屈の意志でもあって、そこには、「自分の生活は自分自身で制御し、まるごと他人任せにはしない」という自律性が、少なくともその萌芽が認められるのではないかと思います。
このカントの「知る勇気を持て」という標語においては、彼の哲学の性格から、認識の問題が強調されているかと思います。しかしながら、フーコーにあっては、カント以来の近代的な認識哲学を退け、認識の可能性ではなく、知の存在を問題にしました。この存在への関心については、フーコーのその後の問題系、権力や倫理の問題系でも継続していて、だからこそ、最晩年に書かれたこのフーコーの啓蒙論文においては、自らの仕事を、「私たち自身の歴史的存在論」、「私たち自身の批判的存在論」と性格づけるに至っています。そういうわけで私は、自らの博士論文(「主体化の哲学のために――ミシェル・フーコー研究」)では、この「知る勇気を持て」という標語を、「存在する勇気を持て」という標語に読み替えられないかと論じました。たとえ規範に則っていなくても、「ふてぶてしくそこにいること」こそが大事なのではないかと思います。
藤田公二郎「ふてぶてしくいる」というのは、規範に則っていなくて、既存の人間の枠を超え出た人たちだとも言えます。その枠を超え出たあり方のままいることは、例えば学校のシステムなどを相対化する時にも、依拠できるものだと感じました。
山内泰そこに存在しているだけでも大変なことなのではないかと思います。ですから、存在するように勇気づけることが重要なのです。「存在する勇気を持て」とは、上からの命令ではなく、傍から励ますメッセージでなくてはならないのだと思います。
藤田公二郎そういう意味では、例えば広島・鞆の浦の認知症の人が施設に入らず、自分の家に独居し続けることも、地域の中でふてぶてしくいることだと言えますね。この例では、その人が周りの人を振り回しているうちに、皆が「あの人のように暮らしたい」と思うようになり、その結果、皆が家で暮らし始めることになりました。そうしたありようを、地域の人はその認知症の人から受け取ったということだと思います。
山内泰皆がふてぶてしくいればいいのだと思います。新しく何かを始めなくてもいいから、ただそこにいて、ふてぶてしく食べて寝ているだけでもいいんです。おそらくそれだけでも十分新しいことなのだと思います。存在してはならなかったものが、存在し始めているわけですから。
藤田公二郎今日は長い時間にわたり、興味深いお話をありがとうございました。
山内泰