公と共と私たち
規範を乗り越え、ふてぶてしく生きよう (1/4)
Vol.5 規範を乗り越え、ふてぶてしく生きよう - 公と共と私たち

藤田公二郎

西南学院大学国際文化学部准教授
現代世界における主体化の諸様態について研究しています。

山内泰

一般社団法人大牟田未来共創センター理事
ドネルモ代表理事
株式会社ふくしごと取締役
東京大学先端科学技術研究センター特任研究員

私たちは日々、色々な規範やシステムによって主体性や理性を持った人間として生きるよう教育され、社会の中で生きています。例えば学校で、会社で、地域で、礼儀を持って振る舞い、決められた時間を勤勉に働き、周りの空気を読んで協調する。そのように社会の中に浸透している規範は、人による濃淡はあっても、誰もが合わせるのに何かしら息苦しさを持っていると思います。そして病気や貧困の場合、時にその規範は適応できない人間を追い詰めるものにもなり得ます。
藤田さんが探されるのは、そのように排除・放置された人々の耐えられない状態や言葉を通して、時に苦しみを生む既存のシステムを組み替え・乗り越える道に思えます。そこでは一見、変えがたく見える今の公のあり方からも超えていけるヒントがあるようです。今のシステムに窒息させられず、あえて勇気を持って「ふてぶてしく」存在できる。そうして私たちが自分で規範やシステムを批判的に捉え、新しく成熟する道を、藤田さんが手掛かりにされるフランスの現代思想家・フーコーと、藤田さん自身の言葉とともに、歩んでみましょう。

システムは偶然的だから変えられる

必然的ではない歴史、偶然の規範化

藤田さんは論文「主体とは何か」(小泉義之・立木康介編『フーコー研究』所収、岩波書店、2021年)の議論の中で、主体の問題とそこから抜け出していくあり方を論じられています。またフーコーを巡る議論でも、公と私が密接に関わる構造について考えられています。

そこで、まず公私の領域に先立ち、自律的に動く主体化を生み出す人間の規範化の原理を伺いたいと思います。論文「生命的−主権的複合体」(佐藤嘉幸・立木康介編『ミシェル・フーコー『コレージュ・ド・フランス講義』を読む』所収、水声社、2021年)でも人間の規範化を促す構造が論じられていますが、そもそもシステムや構造が絶えず人間の規範化を求める原理はどうしてあるのでしょうか。

山内泰

それにお答えするには、最初にフーコーの歴史観についていくらかご説明しておく必要があるかと思います。よろしければ、まずはそこから話を始めて、本題に入っていくことにしましょう。

フーコーが考えている歴史とは偶然的な歴史です。それはニーチェの歴史観から大きな影響を受けています。彼はニーチェの『曙光』を引用しながら、歴史は、「偶然のサイコロを振る必然性の鉄の手」によって進むと述べています。歴史は偶然的だけれど、純粋にランダムに進むものではなく、それまでに生じた無数の歴史的事実の積み重ねの中で少なからず制約を受けている。それでも、次にどうなるかは偶然性に開かれているので、決して必然的な歴史ではないのです。かつてフランスの哲学者ジャン=フランソワ・リオタールが、『ポストモダンの条件』で、近代的な歴史観を「大きな物語」として批判しましたが、歴史には何かそうした「大きな物語」があって、その必然的な筋書きの下で規範化が要請されてきたというわけではないということです。

近代の理性主義者であれば、理性は「大きな物語」として必然的に、目的論的に進歩してきたと考えるでしょう。例えば、古くは宗教的な世界において、聖職者が不当に影響力をふるったり、あるいは血筋で継承される王が不当に権力を握ったりしていたが、次第に人々の理性が開花していき、それまでの俗信や旧習が改められていく。その過程の中で国民国家が形成され、近代民主主義が成立し、その下で理性的主体を担保しようと規律化が行われた。そのように理性主義者なら考えるかもしれません。

あるいは同じ近代でも、マルクス主義者であれば、そうした理性的意識の側、精神的な側面からというよりは、むしろ物質的な側面から歴史の必然的な展開を主張することになるでしょう。資本主義が不可避的に進行し、産業社会の発展段階に入ると、大量生産のために画一的な労働力が必要になるので、労働者の規範化が行われたというような考えです。

このように近代人は、理性の進歩の必然的結果として当該主体の規範化が進んだとか、あるいは資本主義の発展の必然的結果として労働者の規範化が進んだなどと考えがちですが、しかしフーコーであれば、それはむしろ歴史上の前後関係が逆転していると考えるのではないかと思います。つまり、理性的主体であれ労働者であれ、まず最初に人間の規範化のテクノロジーが歴史の中でたまたま形作られ、そのことで初めて、そのテクノロジーに依拠した近代民主主義が作り出されたり、産業資本主義が可能になったりしたということです。そこには決して歴史の必然的な展開が存在しているのではなく、反対に歴史の偶然的な積み重ねの中で、そうした規範化のテクノロジーが誕生してきたというわけです。

ですからフーコーは、人間の規範化もたまたま歴史の中で作り上げられたものに過ぎず、必然的なものではないので、将来的には変わっていくに違いないと考え、それを批判的に分析し、乗り越えようとしました。『言葉と物』では、それがいわゆる「人間の死」という形で語られています。

藤田公二郎

偶然出来上がった近代の規範システムを解きほぐす:考古学と系譜学

人間が、歴史のある必然的な結果として規範化のテクノロジーを生み出してきたと思うこと自体が転倒で、歴史の中でたまたま規範化のテクノロジーが出来上がったから、近代的な「人間」が生み出され、近代の民主主義や資本主義が可能になったというわけですね。そうすると規範化のテクノロジーの成り立ちは、何らかの理由に基づいて説明できるものではないんですね。

山内泰

こうした規範化は、必然的なものとして語ることはできませんが、偶然の積み重ねによってどのように出来上がってきたかを歴史的に記述することは可能です。そして、そうした偶然性によってたまたま作り上げられたシステムだからこそ、それを変えていこうという話にもなっていきます。歴史は偶然性に開かれているので、私たちの活動次第で変えていくことができるということです。

藤田公二郎
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藤田公二郎

西南学院大学国際文化学部准教授
現代世界における主体化の諸様態について研究しています。

山内泰

一般社団法人大牟田未来共創センター理事
ドネルモ代表理事
株式会社ふくしごと取締役
東京大学先端科学技術研究センター特任研究員