不可思議な「わたし」を巡る
「ここに居てもいい」という信頼感―場所アイデンティティが成り立つところ (3/4)
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発達段階における危機の乗り越え

壮年期の自己実現欲求によって住環境が変わるという話と、自己実現とは違う「老い」によって「居てはいけない」というプレッシャーを感じる話とは、本質的には異なる感じがしますね。

山内泰

エリクソンは「発達課題と危機」という言い方をしていますが、人は心理社会的な新しい段階で課題を前にして乗り越えられないかもしれないという危機を迎えます。安定を失ったり自分が変わらなければならなかったりしますが、それは新たな力を得て伸びるチャンスでもあります。子どもたちは養育者に守られたなかで新奇なものを求める心を持っていますし、青年期や成人期は社会に対して働きかける勢いや力があるので、この危機を乗り越えられます。ところが高齢者になって「ここに居てはだめだ」となったときの危機は、そう簡単には乗り越えられません。自分にとっての必然性や前向きのチャンスを見出しにくく、しばしば自分が縁(よすが)としていたアイデンティティを崩さなければならないので、そこをどのように手助けできるかということが求められると思います。

環境移行先で自由に空間の設えができることはきっとアイデンティティを維持する力になるでしょう。ただ、快適で利便性があっても、与えられている限りは自分で何かを生み出しているわけではない。さらにその空間を自分で使う自発的な心の動きが始まったときに、何かが生み出され、「場所アイデンティティ」になっていく契機がありそうです。

それはそこでの具体的な活動かもしれませんし、「この部屋には南風が入る」とか「この窓を開けておくと気持ちいい」とか身体の感覚が働き始めることかもしれません。小さな子どもが初めて公園に行って、遊具を触ってみたり木の後ろに隠れてみたりするのと同じように、高齢者も新しい空間内の身の置き方を試してみるわけです。空間を探索し、自分の身体を使って利用することで、個人的意味を含んだ「場所感覚」が生まれます。場面や意味が生じて、「ここに暮らす私」「ここに居る私」という新たなアイデンティティが生まれ、ようやくその場所が当人を支える「場所アイデンティティ」になっていきます。部屋でも食堂の一角や一脚の椅子でもいいですが、好きに使える場所が生まれてきて、「あなた、ちょっと隣に座りなさいよ」と言い始めたら(能動的に場面を作り始めた!)、場所の個人的意味や「場所感覚」が生まれているかもしれません。

大谷華

「ここに居ていい」という基本的信頼に向けて

モチベーションが生まれやすい状況:心理的安全性

場所に身体が馴染んでいくように場所感覚が生まれ、アイデンティティとなっていくのですね。ここで自分なりに探索するモチベーションは、どのように生まれるのでしょうか。

山内泰

モチベーションは内発的なもので、コントロールというよりも、待つということでしょうかね。ただ、探索については「自己存在が許されている状況」にヒントがありそうです。心理的安全性やサーバント・リーダーシップといった視点からの関わりを受けて、「自分はここに居ていいのだ」という安心を覚えると、心が動き出しやすくなるでしょう。

「心理的安全性」とは、「リスクを取って失敗しても、無能扱いされない」ということです。探索に失敗はつきものです。失敗をしたら結果は引き受けなければなりません、さもなければ世界を正しく認識できないままになってしまいますから。しかしこのチームでは(心理的安全性はチームの問題です)、ひとつのことに失敗してもすべてにおいて無能だとは思われないし、「できないから手伝って」と言ったからといって次のチャレンジ・チャンスを奪われない。失敗した時や失敗しそうな時には、どうしたらいいのかを考えたり率直に相談したりできる。これが心理的安全性のある状態です。すべてが前もって整えられ、行動の前に支援の手が出てくる状況は、「安全」ですが、心理的安全性とは別物です。心理的安全性のあるチームや場面が、新たな環境での探索とアイデンティティ構築を助けると思います。

大谷華

モチベーションが生まれやすい状況:サーバント・リーダーシップ

もう一つの視点はサーバント・リーダーシップです。通常の産業組織はトップの意思決定を実行するための命令系統があり、トップが顧客に良いと思うサービスを提供したり物を売ったりします。しかし、最も直接的に利益を生み出し、組織の目的を実現しているのは顧客と向き合う第一線だ。では、第一線が最もよく働くためにはどうしたらいいか。それには、リーダーが第一線の人が動きやすいように手助けをしたり、サポートをしたり、コーチングをしたり、アイデアを持ってきたり、社内を調整したり、社会的な宣伝をすることだ。すべては第一線が十全の働きを発揮するためであり、リーダーこそ奉仕する、というのがサーバント・リーダーシップです。

サーバント・リーダーシップで大事なのは、第一線社員が「メンバーは支援されるものだ」「支援を受けて力を発揮することが私のやるべきことだ」と自他ともに知覚していることです。支援を受ける社員は手のかかるお荷物メンバーではなく、支援を受けて最良のパフォーマンスを出すのは良い社員なわけです。人の生活においても同様に、支援を受けたり周囲と交流したりして(あるいは周囲と交流しなくても)自分が十全に生きていく、それがその人のいちばん良いあり方だと考える。周りがそう意識し、そういう視点で支援する。たとえば、このおじいさんが持てる力を発揮して生きたいように生きていることが隣で生きている私にとってもいいことだ、という感覚が共有されている中でなら、新しい場所に移った人も自分の新たなアイデンティティを何とかしたい、みつけたいというモチベーションが出てくるのではないかと思います。

大谷華

いずれのお話も、「ここに居ていい」という基本的な信頼感の醸成を支えるものですね。

山内泰
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