不可思議な「わたし」を巡る
「ここに居てもいい」という信頼感―場所アイデンティティが成り立つところ (2/4)
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「場所アイデンティティ」が成り立つところ

コントロールできないアイデンティティ化

場所アイデンティティは、環境の中で、身体において生成されていくとすれば、うまくコントロールできないものでしょうし、意識的に関わるのもの難しいように思います。

山内泰

場所アイデンティティの形成を事前コントロールすることはできないと思います。町づくりに関わった男性も「ここに骨を埋めてやろう」ぐらいは思ったかもしれませんが、「この町が自分を支える場所アイデンティティになる」と思っていたわけではありません。逆に思ったからといって、そこが自分の本質にどこまで関わるかもまた別です。人の意識に上るのはその場その場の場面であって、環境はおおむね意識されないでしょう。

環境を意識するかどうかに関連して、職場の心理学で動機付け要因と衛生要因というものがあります。動機付け要因とは「自分の成果が上がる」とか「人に褒められる」というもので、働く人に意識されており、仕事のやる気や満足感に直結します。一方、衛生要因というのは「自分の机に他の人が進出してこない」とか「会社のトイレがきれい」というものです。トイレが汚ければ文句を言いますが、きれいな時にはおおむね意識されない。衛生要因は良好な場合は意識されませんが、居心地や印象の良し悪しに関わり、仕事ぶりにも影響しています。環境は衛生要因なので、なかなか意識に上がってきません。

大谷華

自己存在が許されている状況

大谷さんは、環境要因である空間を専門的にいくら工夫したからといって、それだけでは深い愛着の保証ができるわけではなく、ア・プリオリにその場所で自己存在が許されていると感じるときに、人は情動的なつながりを持つと言っています。ここで「自己存在が許されている」というのは、どんな状況を想定されていますか?

山内泰

自己存在が許されている状況とは、その場に居ることの正当性、つまり「ここに居てよい」「あなたがここに居るのは真っ当なことだ」ということが、当人に対しても周りに対しても示されている状況だと考えています。

みなさんが自宅にいる時に、見知らぬ誰かから「あなたは〇〇なので出て行ってもらいます」と言われたら、そんなことを言うのはおかしいと感じませんか。それは、「ここに居る」ことの正当性が、自宅だということで了解されているからですね。しかし、あなたが居るのが高齢者施設であっても、同じように「ここに居る」ことが守られていることが必要です。高齢者施設に措置をした行政官が何か粗相をした私に「大谷さん、そんなことでは出て行ってもらうよ」と言ったら、それはおかしい。行政官にそんなことを言う権限はないし、私は施設に居ていいわけです。

行政や施設の担当者に許可を求めるということではなく、「大谷はここに居ていい」と、当人はもちろん周囲の人々に対して明らかに示されていることがとても大事です。そういうことを「自己存在が許されている状況」として考えています。

大谷華

自己存在が許されていることへの信頼

場所や空間は誰かと共有するものでもあるので、自分以外の誰かが仮に現れたとしても「ここに自分が居てもよい」というある種の安心感や信頼感がすべて織り込まれたかたちになっていることが、自己存在を許されているということですね。それは、目の前の誰かによって「お前は居てもいい」と許可されることではなく、もっと根源的に正当性があるという実感なのでしょう。それは、より具体的にはどんな心のありかた(心理的メカニズム)なのでしょうか。

山内泰

人が自己存在の正当性を求めるのは、それが生きていく力の源泉だからと思います。人と社会の関わり方について、エリクソンの漸成的発達理論は最初に「基本的信頼」を上げています。人は生まれた瞬間から徐々に心理社会的に自分を作っていきます。赤ちゃんが生まれたときに「おぎゃあ、おぎゃあ」と泣く。それに対して(どこからか誰かの)手が差し伸べられる。自分が不快感を発信すると、突然現れた自分に対してこの世界は反応する。「あらあら、どうしたの」と反応したお母さんがへたくそでお尻をきれいにできなかったり、お父さんが来てお腹がいっぱいにならなかったりして、求めた快が得られないかもしれません。それでも、「赤ちゃんが求め、世界が反応する」ことが重要です。この応答により、「自分がここに居ることが受け入れられた。自分はこの世界に居ていいんだ」という認知の枠組み、つまり基本的信頼が心に作られます。これが生きていくための一番の力になります。赤ちゃん期だけでなく、青年期も成人期も老年期も基本的信頼が生きる力のもとになっています。

またマズローの欲求5段階説では、下位の四つ(生理的欲求、安全欲求、所属と愛情の欲求、承認欲求)が満たされないと人はこれを求めるとされます。食べたいとか、眠りたいとか、身を守りたいとかです。人は生物として個体で生きられるように進化しておらず、集団で生活します。でも、背中を見せると切りつけられるような集団ではその中にいられませんから、周りが自分に対して悪意を持っていない、ここに居ること(=所属)が許容されている、存在が承認されている、という状態を求めます。生きていくための、生物としての性質ですね。

これら二つの心のありかたがにおいて、自己存在が許されているというときに私たちは初めて自由に動くことができるのだと思います。

大谷華

今のお話を聞いていて、リロケーションダメージとは、「地域にこのまま居てはいけない」という、ある種存在の根底が揺さぶられる体験なのかもしれないと思いました。つまり老いが進んだことによって、(自分でそう判断するにせよ、周りから働きかけられるにせよ)自分が住んでいた場所に「このままここに居てはいけない」と感じてしまうのであれば、そこでは人間の根本的な欲求が揺さぶられかねません。だからこそアイデンティティの喪失と密接にかかわるわけですね。

山内泰

そうですね。自分が住んでいた場所に居られなくなって(居てはいけなくなって)環境移行するのは、幽霊になって足が消えてしまったように、足元がスース―する体験でしょう。また、居られなくなったことで自分を責める、「みんなに迷惑だから」などと口にするときには、「居てはいけない」と自分で自分を追い込んでいるのでしょうね。一方で、人は柔軟で強いので、「居ていいよ」と支えてもらえたら新たな居場所を見出すこともできます。ただし、それにはとても支えがいる。

大谷華
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