不可思議な「わたし」を巡る
「ここに居てもいい」という信頼感―場所アイデンティティが成り立つところ (1/4)
 - 不可思議な「わたし」を巡る

大谷華

駒澤大学 心理学科非常勤講師
関心は「場の力」。物理的にも心理的にも。

山内泰

一般社団法人大牟田未来共創センター理事
ドネルモ代表理事
株式会社ふくしごと取締役
東京大学先端科学技術研究センター特任研究員

「場所」に対して人が抱く感情や思い、さらには無意識的に宿っている感覚は、アイデンティティと深く関わっています。大谷さんは、そうした場所とアイデンティティの関わりは、単に長い期間その場所に住んでいるというだけで生まれるわけではない、と言います。では、場所とアイデンティティは、どのように関わっているのでしょうか。
こうした問いを、今回は「場の力」への関心から研究を進めている大谷さんと考えていきます。場所愛着・場所感覚・場所アイデンティティの整理に始まる対話は、やがて「ここに居てもいい」という信頼感を巡る話題へと展開されました。

「場所愛着」「場所感覚」「場所アイデンティティ」

アイデンティティと場所の関係を考えていくにあたり、大谷さんが整理されている「場所愛着」「場所アイデンティティ」「場所感覚」について、最初に教えてください。

山内泰

「場所愛着」は、特定の場所に対して個人が抱く情動的なつながりです。自分と深いところで関わっている愛着もあれば、「アニメに出ていたあの場所が好き」という愛着もあり、深さのレベルはいろいろです。「あそこはどうしても嫌い」といったマイナスの愛着もあるでしょう。

「場所アイデンティティ」という語は二つの使われ方をしています。一つは「その場所がどのような場所か」、場所自体のアイデンティティです。町おこしの広報などで使われていますね。もう一つは、「私は何者か」、人のアイデンティティを支える要素としての場所アイデンティティです。私はこの意味の場所アイデンティティに関心があるので、今日の話はこちらになります。

「場所感覚sense of place」は場所の意味を識別する能力で、「この場所にどんな意味があるのかがわかる」という感覚です。そこで何が起こり、どんな行動が求められるかが、頭でわかる、気持ちで感じる、それに応じて行動する。場所感覚は、場所についての個人的意味にとどまらず、「社会的にどういう場所か」の認知でもあります。

ある空間、たとえば路地や空き地に場所感覚を持つというときに、まず物理的な環境があります(バーチャル環境やファンタジー世界での場所感覚もあり得ますが、今回は具体的な物理的環境で考えていきましょう)。そこにあるいろいろな要素がかかわりあって出来事が起こる(あるいは起こらない)、これを場面=セッティングと言います。さらに、各要素の背後には共同体や社会のストーリーがあり、場面を構成する個人自体が今ここでストーリーを作りつつあるという時間の要素があります。具体的で物理的な場所と、そこで生じる場面と時間を捉えたときに、それが場所感覚と言えるだろうと思います。

大谷華

場所感覚というのが面白いですね。例えば、ある「教室」であれば、それが単なる「勉強する場所」ではなく、そこで「学生が騒いでる」とか「先生が怒っている」など、何かしらストーリー的な時間の流れの中に位置づけられた場面のように感じるということかと思いました。では場所感覚と場所アイデンティティはどんな関係にあるのでしょうか?

山内泰

身体で生成される「場所アイデンティティ」

「場所感覚」に社会や共同体のストーリーだけでなく自分自身の体験や語りが入ってきて、「場所アイデンティティ」が生成されいくのではないかと考えます。でも、場所や場面を体験しても、そのすべてが場所アイデンティティになるわけではない。場所アイデンティティになるかどうかには、もう一つ段階が関わると思います。

アイデンティティは自分独りでは生成されません。ここに至るまでの自分の年月、それ以前の親やその親の時間、また自分の後に子どもや関わった人たちがつながっている、そういう中で自分を支えてくれるようになったものがアイデンティティです。アイデンティティは、自分が何者かに成っていくとき、また何かを作った時に生まれてきます。外から与えられるラベル的な社会的アイデンティティもありますが、本質的な内的アイデンティティは、幼少期や成長期に育つ中でできるだけでなく、就職して仕事人という新しい自分を生き始めたとき、あるいは親になり今までと全然違う存在になっていくなかで新たに構築されます。

自分が何者かに成るとき、そこでは自分の身体をもってアイデンティティを構築するので、身体があった場所が「場所アイデンティティ」として自分を支えてくれるのではないかと思います。たとえば初職のオフィス、子育てをした場所などは、良い思いも嫌な思いも含めてあなたを作り、そこでうまれた新しいあなたを支える。自分の深いところに関わる場所、自分の存在が新たに構築されたリアルな環境や場所は、ただの「場所感覚」から「場所アイデンティティ」になるかもしれません。

大谷華

時間とは比例しない「場所愛着」

場所アイデンティティは身体で構築されているのですね。あまり意識されずとも自分の中に着実に積みあがっているものなのだろうと思います。一方で大谷さんは論文で、住居年数が家愛着と関係なかったという話が書かれていたと思いますが、単に長く住んでいるという時間の問題でもないのでしょうか。

山内泰

そうですね。長く住んでいる人のほうが自分の地域や家が好きだろうと思い、在宅居住の健康な高齢者の方たちにインタビュー調査をしました。ところが、居住年数が長いからといって愛着が蓄積されてはいませんでした。町の変貌期に地元と深くかかわって「あの頃は全然こんな様子じゃなくてね」というお話や自分が子育てをした頃の家と地域の思い出話からは、それらの体験がとても濃密な時間であったことと、その場面が生じた場所が当人の現在のありようありようを支えていることが伝わってきました。一方で、「子ども家族は2階に住んでいるけれど、降りて来なくてね」という話では何年もの経過が全部重なっていて、長い時間がスパっと抜けている。時間は均一には過ぎていない。場所愛着は単純な時間の関数ではありませんでした。

大谷華

都市部と農村部によって異なる「場所感覚」

時間の長さよりも、時間の中の濃度や密度、「場所感覚」に強く印象付けられるような場面が頭の中に思い起こされるかどうか、なのですね。その濃さを、本人が意識しているかどうかは重要なのでしょうか。

山内泰

一概には言えないかもしれません。たとえば東京在住の高齢者についていえば、「振り返って浮かんでくる」という意味で、場所と経験に意識が向けられていたと思います。回想されない場所は経験として薄く、場所感覚がなかったのでしょう。

他方で、これは文献で読んだのですが、農村のある高齢者が長年自分の家と畑を行き来していたのですが、その道すがらのある地点から眺める夕日の風景が彼女の中でクリティカルな意味があったそうです。もっとも、その場所に意味があるとは本人も意識していなかった。環境移行をしようとしたときに老女が見せた不調から、家族が場所の意味に気付いた。繰り返しの多い日々の中で重ねてきた環境との関わり合いが、そこに結晶化していたのだと思われます。

町も自分の生活も大きく変わり続けた都市の高齢者が経験した環境との関わりと、変化の少ない農村で、結婚・子育て・配偶者が亡くなるといった人生を何十年もの農作業の繰り返しとともに過ごしてきた高齢者の環境との関わりは、同じではなく、異なるパターンやスタイルがあると思います。

大谷華
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