不可思議な「わたし」を巡る
苦しくも生き生きとしたアイデンティティ-他者と呼び起こす主体性の空間 (4/4)
1 2 3 4

目的・役割を宙吊りされた社会を楽しむ

「大文字の他者」からの呼びかけ

ここで面白いのは、ボランティアは、初めは役割として参加していても、実際に走っている人を目の当たりにすることで、走っている人の動物性や純粋に何かを欲している呼びかけに応じるように、自発的になってしまう状態が起きることですね。

山内泰

否応なく呼びかけられている。まさにそういうことが「大文字の他者」なのだと思います。例えば選手が「水をかけてくれ」と声に出したわけじゃないけれど、その姿を目の当たりにした瞬間に呼びかけられているように感じるんですね。

浜田雄介

印象的な場面で一つ思い出したことがあります。トライアスロンは長いので最後のほうは日が暮れてしまうんですが、暗い中で選手が来るのを待っている応援のグループがいました。そこは給水所で、ボランティアの人がスポンジで体を冷やしたり水を渡したりする係をしていました。やがて応援の人たちが待っていた選手を見つけて声援を送っていると、その係の人が「水かけをやりませんか」と言って、応援の人たちにスポンジを渡しちゃったんです。それを競技として考えると「何を勝手なことしてるんだ」となるけれど、もしこういう即興的な行為を一律に禁止すると、大会の楽しさはかなり減ると思います。それは「私設エイド」を作る人がいるのと一緒で、思いがけないこととして過去の大会でも同じようなことが起きていたと思います。それらを「それはダメだ」「ちゃんとしろ」と言って禁止することがなかったからこそ、今でも自由な何かが起きる可能性が残っているんです。ですが逆にそうした行為を明文化・推奨しているわけでもありません。

浜田雄介

そのような自由・自発の領域は逆に明確に規定しない形でしか残せなくて、もし規定してしまうと、それがあるべき姿になってしまう。それで何も規定しないでおいて、実際に水をかけてあげて、その選手の後ろをついて走るようなことが起きてもその場で止めたりしない。本当は伴走することはルールに反しています。けれどそれを厳密には適用しない。そのときはもう、頑張っている人がいたら、自分たちも走ろうってなるしかない、ということです。

浜田雄介

そういう形で、役割を外れた「大文字の他者」に応じるようにして、走らざるを得ないことになっているわけですね。

山内泰

目的・役割に縛られない紐帯と仲間の中で

こうした「大文字の他者」との関係は、日常で社会の役割を果たしてメンバーに承認されることと異なるように思います。それは「何でもないもの」としての他者の存在を受け入れる、またはお互いが存在を受け入れることに近いと思います。トライアスロンの場合は、ルールを守ったり、良い成績を残すことで承認を得てアイデンティティを保つだけでなく、その場の「水を飲みたい」「走り切りたい」といった他者の呼びかけに応じる形で存在を受け入れたりしていますね。

存在が受け入れられる話は、社会的な役割であるセルフの承認ではないことがポイントだと思います。存在を認めることを承認としてしまうと、エゴの領域の話をセルフ化することになってしまいます。そして逆に承認がなくなると、全くアイデンティティがなくなり自分の存在自体が危うくなる。そうではない形で、「大文字の他者」に向き合うエゴという非合理のあり方が許容され、擁護される場はどのようなものとお考えですか?

山内泰

トライアスロンの事例だと、「仲間」と呼ばれる関係がそれにあてはまるかもしれません。私がお話をうかがった人たちの場合、トライアスリートだからとか同じクラブだからということで繋がっているというだけでなく、やめて離れた人、すごく真剣にやる人、運動不足解消でほどほどの人まで、様々な人たちが緩やかに繋がっています。トライアスリートというセルフの次元だけで考えれば、トライアスロンを続けられなくなったらその人のアイデンティティは崩壊したことになるし、そのグループが競技志向のアスリートとして結合している集団だとしたら、理論的にはそうではない人は排除されてしまいます。

浜田雄介

それに比べて、「仲間」関係が繋がっているのは一緒にいて居心地がいいからだと思います。お互いに干渉しないけど、お互いを受け入れ合ったり支え合ったりという関係がそこにはありました。「仲間」関係というのは一つの閉じられた場があるわけではなく、あらかじめデザインされているわけでもなく、こうあるべきという型があるわけでもありません。だから活動自体が続かなくなったりすることも起きますが、一方でそのような関係が現れてきた背景の一つに、規則や目的がしっかりしているクラブが消滅していったということがありました。こうしたことからは、近代的な目的や役割によって結合するのとは別のあり方で人とつながったり、またその中で自分を見出ていきたいという社会の傾向を読み取ることができるのではないでしょうか。

浜田雄介
このお話はトライアスリートという規定が曖昧化することによって、「仲間」というある意味の紐帯ができ、初めて承認とは違う存在が受け入れられる場が成り立っているという話ですね。それは明確な規定性を持たないが、誰でも良いのとは違う、ある種のあいまいさが持っている可能性とも言えますね。 山内泰

そうですね。誰でもウェルカムな集団というわけではなくて、自然発生的にたまたま出会った時に、気が合ったということだと思います。たまたまジムに行ったらトライアスロンに誘われたような偶発的なつながりですけど、だからこそ緩く受け入れることもできますね。

浜田雄介

もちろん一緒に練習、大会参加、応援などを重ねて、存在のレベルで宙吊りになる体験を共有する中で出てきた関係なので、同じトライアスロンをしているもの同士ということはとても大事です。ですがそれはトライアスリートであるということの強さや同質性で括られる集団のあり方とは違って、一緒に競技を楽しむことでトライアスロンに対して前向きになれたり、応援をする中で自分も頑張ろうと思えたりする場なんです。

浜田雄介

その場合、合理的なトライアスロンという目的と、非合理的な伴走や応援・場の共有という身体的な体験を共有する仲間の中で、アイデンティティが形成されているとも言えますね。本日はありがとうございました。

山内泰

(2022年2月8日オンラインにて収録)

1 2 3 4