不可思議な「わたし」を巡る
苦しくも生き生きとしたアイデンティティ-他者と呼び起こす主体性の空間 (3/4)
1 2 3 4

日常の社会から一歩外れるデザイン

自由にふるまえる場所や隙間から生まれるもの

トライアスロンもそうですが、ある一定の目的を持っているように見えながらも、その合理性とは違うことが起きる場所であることが大事だと思います。それを社会的に実装していくときには、合理的・日常的な意味とそこから外れた宙づり状態にも行けるデザインが問われますが、トライアスロンはその痛快な事例ですね。

山内泰

エンデュランススポーツにはオリンピックのように競技として徹底する形がある一方で、スイーツマラソンやカラーランなどの楽しむことを目的としたファンランという形もあります。なぜ走りながらケーキを食べたりカラーボールを投げたりするのかはよく分からないですが、おそらく自由にふるまえる場所を設定しているのだと思います。トライアスロンもマラソンも真剣に練習しないと参加できず、しっかり競技するという力が働くので、その中にどのように外れるところを残せるかということですね。

浜田雄介

例えば、各都市でマラソン大会をやっていますが、仮装禁止の大会には安全面の理由も含めて仮装して走ることが競技性を損ねるという考えがあるわけです。そのほかにも競技の公平性を考えると、決められた給水場所以外で応援の人から飲み物をもらうことは禁止されています。ただ応援の人との会話ややり取りができるとしたら、それはそれで新しいものが生まれうるはずです。競技をしている途中にいったん競技を外れての人との関わりというのは、まさに非日常的な関わりです。

浜田雄介

トライアスロンのコース上には、選手に食べ物や飲み物を提供するエイドステーションという場所があります。エイドステーションは大会が一定の距離で決められた場所に設置するのですが、それとは別に自分たちの「私設エイド」を作る人たちがいます。ある大会では作ってもいいとも悪いとも言いませんが、そうした「私設エイド」が恒例になっていて、飲食物を置いたテントのほか、家からホースを引っ張ってシャワーで水をかけてあげたり、自分が経営しているお店の駐車場で子供用のプールに水を張って選手が使っていいようにしたりしています。そうした競技の隙間・外に出られる可能性が残されていることで生まれる楽しさや関わりがあります。もし本当に真剣に競技がしたくて、それは違うと思えば「私設エイド」を使わずに素通りすればいいので、その意味では選択の幅が担保されています。観客がコースに入り込んで選手にぶつかったりするといったリスクもありますが、そういう大会だからこそ、一つの目的や合理性の隙間に自由な空間が生まれることがあり得ます。

浜田雄介

非合理なものを実装するデザインのあり方

合理性と重なる非合理性の部分を社会で実装していくときに、ファンランのような非合理性自体を目的にしてしまうと、それは一つの目的となって合理的な意味へとひっくり返ってしまう。逆に社会に実装する側はポジティブな目的・意味の規定しかできない中で、仮装やプールの例のように勝手に湧き出てくる非合理な領域に対する関わり方が問われるわけですね。

山内泰

はい、非合理的なものが出てきた時にどのようにするのかが重要だと思います。それを受け入れるか、排除するか、また別の形に根本的に変えるか、あるいはそもそも何かが起こる可能性を残してあるかということは、デザインのあり方に関わってきます。何か非合理的なものが生まれたときにそれが運営側として当初の想定とは違うものだったとしても、そのまま残してみたり、最初からこうでなくてはいけないと決めつけすぎないことが大事だと思います。

浜田雄介

一つ例を挙げると、トライアスロンの大会は制限時間までにゴールできなかったら失格です。ある大会のゴール地点は陸上競技場のトラックなんですが、制限時間が過ぎたら競技場の門は閉じられ、走り続けている人は途中で回収されます。すると制限時間後に回収されずに門まで来た人がいました。その人が応援してくれた家族や友人と一緒に門までたどり着いたときに、スタッフの人が門を開けたのです。その時は制限時間から10分くらい経過していて、競技場の片づけも始まっていたのですが、誰もその走っている人たちを止めませんでした。そして最後のフィニッシュゲートまで走りきると、会場に残っていた人たちがそれを拍手で迎えました。その後もすごく楽しそうに記念撮影などをしていて、競技上のルールとしては門を開けてはいけないのですが、開けたことで生まれた何かが確かにそこにはありました。

浜田雄介

そういった状況は、走っている本人でさえもともと頭になかったことのはずで、何かのきっかけ一つで誰しもにとって思いがけないことが起き得るということです。そのような可能性を残せるゆとりのあるデザインが、非合理なものを実装するときに大事なのだと思います。

浜田雄介

思いがけない自由の伝播

既存のルールや決まりを柔軟にすることができるというのは、トライアスロンのような持久系の競技だと苦しさや弱さがさらけ出されるというか、「何でもないもの」に近づいている様子に何かしら人が感染するというか、突き動かされてそういうあり方を擁護しようということがあるのでしょうか。

山内泰

「何でもないもの」に突き動かされているのはまさにその通りです。目の前に苦しそうな人がいて頑張っているときに、それをどう受け止めるかは個人差があると思いますが、頑張ってほしいと手を差し伸べるような情感が湧いてくることはあります。それはおそらく理屈ではありません。競技中の飲食も、もちろん的確に補給をすることで効率的にレースを進める面はありますが、単純に苦しくて食べ物や飲み物を欲していることを、ある人は動物的だと言っていました。「ただ暑いから水をかけてほしい」「のどが渇いて飲み物や果物がほしい」という時には、まさに自分をさらけ出していて、普段の社会的な自分からしたらまさに「何でもないもの」に近い。

浜田雄介

エイドステーションで選手たちに対応する大会ボランティアも、ボランティアという与えられた役割だけでやっているわけではないと思います。そこでは否応なく自分が突き動かされて「もっと喜んでほしい・頑張ってほしい」という気持ちが湧いてくるんだということが、体験記にも書かれています。それは役割や仕事として目の前の選手に応じているのではないという意味で、社会的な次元から外れた体験です。山内さんが「何かが温まる」と書かれていたような状態は、こうした体験に重ねて考えることができるかもしれません。

浜田雄介
1 2 3 4