不可思議な「わたし」を巡る
対話が取り戻す「物語としてのアイデンティティ」-リロケーションダメージへの関わり (3/4)
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認識がステップアップしていくプロセスとしての「健康」

健康の概念は、ある一時期の状態を健康とする等、健康と不健康を分けるような話ではないということですね。

山内泰

そうです。「健康とはプロセスである」というとらえ方をします。今がいわゆる不健康だとしても、そこには健康になるための鍵がいっぱい詰まっている状態とみます。客観的に見たら弱いかもしれないし、病気を持っていてネガティーブな状況にあるかもしれないけれど、それは私たちがアプローチしていく上での大事な状況です。

赤星成子

ニューマンの理論は19世紀ドイツの哲学者ヘーゲルの弁証法的な考え方に基づいています。ヘーゲルの弁証法は意識とか精神とか形而上のことを扱います。精神がどのようにして弁証法的なプロセスで上がっていくのか。そこでは「良い/悪い」と二分されずに、よくない状況の中にも意味を見い出し、意味に拓かれることで、自ずと認識が拡張していくと考えます。この弁証法的な螺旋状のプロセスを健康のプロセスとニューマン理論はとらえるのです。そのため今の状況で不利益を被っているから悪いとか不健康だとか、そういう考え方をしません。

赤星成子

アイデンティティを取り戻す対話と物語

お母さんから昔の話の聞き取りをしていく中で、赤星さんも初めて聞くような話が出てきた。そういうかたちで、いろいろな意味が開かれていくプロセスがあったのですね。

山内泰

いろいろなことが開示されていきました。人が持っている見えない部分というのは本当にすごいと思いました。母もクリスチャンなので告別式は教会で行われました。牧師から「あなたのお母さんのことを教えてください」と言われたので、母から聞いたことを伝えました。すると母のことが、その場にいる兄弟や遺族にも波及し、「こんな風な生き方をした人だったんだ」と共有されて、告別式というよりも母の生き方を確認するようなかたちになっていったのです。告別式を、残された人が悲嘆の状態にとどまるだけではなく、亡くなった人のこれまで生きてきたプロセスから「その人の生き方」を受け取る式になりました。そのように変えていくことで意味としての生き方が残された人の中で力となって、受け継がれていくものなのではないだろうかと思います。

赤星成子

すごく丁寧にお話を聞いていくことで、様々な体験が掘り起こされているように思います。

山内泰

話の中で出てきたのは農作業などの「身体の記憶」より、子ども時代から戦争の体験を経て結婚するまでの話が多かったですね。「子守り」や「お手伝い」として、よその家で生活しながら必死になって生き抜いた時代が記憶に大きくとどまっていたのだと思います。農作業では、「サトウキビのできが一番良いということで役場から表彰され調査を受けた」という話がありました。話を掘り起こすことによって、自分はこんなことを体験してきたんだって、どんなに辛かった体験だろうが良かった体験だろうが、その人にとってこういうことを乗り越えてきたのだと振り返る時間になります。その体験がどういうことなのか自分でも知らなかったことを共有することで、意味として浮かび上がってくる。それを共有する人がいて対話することで、自分自身を取り戻していっている。つまり、アイデンティティを取り戻せているということです。

赤星成子

ここで「アイデンティティを取り戻す」とは、実感を伴った感覚なのだと思いました。身体化されているアイデンティティが言葉に触発されるかたちで活性化され実感される。そんな実感を呼び覚ますプロセスとして、対話があり、物語があるように思います。

山内泰

まさに関係性の中での物語です。対話によって物語を紡ぎだしていくと、このような状況と人たちとの関わりの中で「自分がこんな風に生きてきたんだ」というパターン(意味)がわかったときに、人は自分自身を取り戻せた瞬間を体験します。看護で大事なのは病気を予防するとか、病気をこれ以上進めないとかそういうことだけではなくて、その人の認識をいかに広げていけるかです。看護実践は、身体的なケアにとどまらず、パートナーとなって一緒にその人の意味ある出来事や物語からその中に在る意味(パターン)を創出する取り組み(ケアリングプラクシス)で、それが看護の本題だと理論の中でも言われています。

赤星成子

対話が呼び出す「その人」の物語

アイデンティティを取り戻すプロセスが個人に閉じておらず、対話を通して「自分の世界であると同時に他者の世界でもある」という関わりになっている点は、面白いし本質的ですね。

山内泰

「アイデンティティを取り戻す」、「パターンに開かれる」という言葉の定義や位置づけをせず、使っています。吟味し整理していく必要があると思いますが、どちらも「自分自身にとって意味を伴うもの」という重なりの中で同義語として使っています。

赤星成子

その人のアイデンティティはその人だけのものではないと思います。関係性の中でアイデンティティは構築されるもの、その人の歴史、その人が生きてきた体験とか出来事とかその人が出会った人との関係、育ってきた場所の中で創られているものだと思います。まさに、それは「自分の世界であると同時に他者の世界でもある」関係性の世界を大切にします。

赤星成子

そういったものが全部氷山の下の部分にあります。それを取り戻せるように表面化させていき、その人が自分の生き方やアイデンティティを自分の中につなぎとめることができれば、生きる力、方向性が開かれると思います。そのために対話は大事だと思います。

赤星成子

パターンとは意識の拡張であり意味の創出です。意味は関係性の中で創出されていきます。対話を通しての意味の創出は両者が変わる力になります。私にとって物語の中の母の生き方の意味に拓かれた時、母の物語は生きる力になりました。

赤星成子

実際にお母さんと話をするときに、例えば昔の写真を見たりされたのでしょうか。

山内泰

媒体があると想起がもっと容易になると思います。写真は手元にありませんでした。でも話がすごくリアルで、映像が浮かんでくるように具体的に話すのです。認知症であっても長期記憶はすごい。そういう風に長期記憶から引き出すことができれば、認知症の人でも普通に会話ができるし、全然問題がありません。周辺症状として興奮したりイライラしたりする患者さんもおられますが、そういうのは全くありませんでした。

赤星成子

私が関わった卒業研究の学生の事例ですが、写真のような媒体として、昔のことを呼び戻す意味で、毛糸という「なじみ深いモノ」を媒体にして関わった事例があります。認知症の周辺症状で暴力的な患者さんに(学生が)関わったことがあります。そのときも長期記憶を呼び戻したのです。その人が編み物教室を昔やっておられたということで、編み物教室と称して毛糸をもっていって「教えてください」って言って、どんどん過去の記憶を呼び戻しながら取り組んだら暴力的な言動が落ち着いていきました。

赤星成子

私たちが「その人の内に埋もれているその人」を呼び戻すことで、状況が変わっていく例が何例かあります。本人にとっても、「自分が忘れていた自分」が呼び戻されるのです。氷山の一角である暴力的な「目の前のその人」じゃなくて、「埋もれているその人」のアイデンティティを取り戻した事例です。

赤星成子
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