公と共と私たち
自分事から始める公共性と絶対包摂の共同体 (3/3)
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新しい共同体のかたちー絶対包摂による個人の自立

絶対包摂の共同体

かつて日本では、郷土や地域共同体という共通基盤・中間集団が個人を支えていた面がありましたが、戦後はそれがだんだん無くなってきました。かといって現在のライフスタイルの中で、過去の共同体にそのまま回帰することも困難です。一方で、欧米の強い主体・しっかりした主体も、日本では馴染まない気がします。日本の公共性を考えていく上では、どういうものが基盤になると思われますか?

山内泰

共同体は「パトリ」と言われたりもしますが、自分なりの新しいパトリを見つけて作ることだと思います。例えば移住先でも、出身地でも、そこが大事だと思ったら根を張って、会社や勉強のグループなど何か共同体を作るということですね。

先ほど言った「一身独立して、一国独立す」は不安な個人を作るのではありません。ちゃんと独立した個人は共同体に基盤があるんです。共同体のポイントは仲間に何かあっても切らないことです。だから独立した個人が大事だという意味は、自分が弱者になっても切り捨てられないし、相手が弱者になっても切らないという共同体があるからこそ、個人が独立して色々とできるという意味です。そのために自分なりに仲の良い友達グループでも何でもいいですが、何人かの共同体を意識的に作ることでしょう。その中では絶対包摂のような、何があっても守る関係性を作る。こういうグループに一つ二つ所属しているだけでも、個人はすごく強くなれると思います。それは西洋的な絶対神との向き合いとは違ったタイプの個人のあり方だと思います。

辻田真佐憲

なるほど、絶対包摂の共同体ということですね。

山内泰

親友みたいなものですね。それが何百人もいると重いですが(笑)。チェスタートンというイギリスの批評家のよく引かれることばに「ひとりの女、ひとりの友、ひとつの思い出、一冊の書物」というのがありますね。そういうものだと思います。絶対に裏切らない人間が一人二人いるだけで全然違うのではないでしょうか。

辻田真佐憲

こうした議論でよく懸念されるのが、共同体自体が元々持っていた同調圧力や空気です。でもここで言う共同体は、圧力を何かしら回避しつつ絶対包摂が実現するような信頼の基盤があるということですね。

山内泰

そうですねこの小さい5人くらいの共同体には空気も何も無いですよね。逆に言うと、それがないと巨大な一億人ぐらいの同調圧力に負けてしまいます。そういうものを持っているかどうかは、こうした同調圧力が強い社会ではとても重要だと思います。それは生まれながらの共同体でなくても、新しく選び取っても良いんです。実際に、日本人はあちこちに動いているので、新たにどこかに住んで10年過ごしたら、それはもう根を張っていますよね。

辻田真佐憲

複数の共同体

ただ、一つの共同体だけに属するとそこに囚われてしまう危険もあるので、いくつかに所属できることも必要です。共同体は生まれ持ったものではなく、自分で選び取れるので、友人のコミュニティや趣味のコミュニティといったいくつかを持っておく。そこで面倒ごとや問題が起きたりすると、もちろん共同体なのでまずは助けないといけません。ですが、重大な問題が起きた場合は撤退できるぐらいの距離感で付き合うことですね。困った時に助けるからこその共同体なので、簡単に撤収したらまずいけれども、どうしようもなくカルト化してしまったりしたら、そこは逃げた方がいい。だから、いくつかの共同体を持っておくことが、そこに危なく拘束されそうになった時の防波堤としては機能すると思います。

辻田真佐憲

辻田さんは実際に色々な座談会をされることで、こうした中間的な共同体の存在を示されてますね。それに加えて、どのようなアプローチや実践を考えられていますか?

山内泰

良い「中間」をやって見せる

これも座談会と関係していますが「こういう状態の方が良くないですか?」と現にやって見せるしかないと思います。すごく過激なことばかり言って消耗している人よりも、その中間ぐらいで落としどころを見つけて、より深い議論をできるような状態をお見せする。その中で「やっぱり中間の方が良いよね」と思われれば、それは妥協の産物ではなくて、取捨選択や試行錯誤の結果としての中間だと思います。現実的・歴史的に見てもそうなんですが、過激な人間は必ず滅びます。極端なことを言う人間は、一瞬何かの波に乗ってパッと行くことはありますけど、その後は絶対落ちて、真ん中の方に戻ってきます。右に行ったと思ったら左にと、社会は行ったり来たりするんですが、結局は真ん中の方が残っていくんですね。

それは過去を見てもそうですし、現実に色々な人々を見た時も、最終的には中間がいいという結論になると思います。私は色々なものをお見せして、読者には色々なものを見ていただく。そうすると、おのずから落ち着くべき所に落ち着くのではないでしょうか。

辻田真佐憲

地域でもやって見せる

地域での実践に関して言えば、その共同体が色々と議論をしていることを見せたり、生活していること自体が周りから見えたりすることが大事だと思います。そうやって「あそこの人たちすごく面白くやっているし、楽しいことをやっているじゃないか」と思われることです。それを普段から実践しているだけで、周りの人たちに何か見えてくるはずです。特に今がすごく不満で楽しくないと思っている人たちが「あそこに集まっている人たちは面白そうだ」と感じる。特に地域の場合だと、それが噂レベルで伝わります。だから「背景に共同体があるからこそ、自分たちは色々なことが出来て、楽しくやっています!」と実践するだけで、かなり伝わっていくし、見えるものがあると思います。そういった中で周りの5人、10人が変わっていって、それが伝われば、もっと多くの人に影響があるかもしれません。そういう良いハレーション効果を作っていくことが大事だと思いますね。

辻田真佐憲

公共性を自分事にしていく

ニヒリズムへの懸念

先ほどは個人と共同体の関係を伺いましたが、ここでは個人と公共性の関係について改めて伺います。とりわけ日本の「公共の場所」では、公共の場所であるがゆえに誰もタッチできなくなることがあります。例えば公園でも、ちょっとしたクレームがきっかけで、自由に使える余地がなくなってしまう。その捻じれた形には、同じ公共という言葉を使っていても、欧米におけるパブリックのあり方とは異なり、日本における公・公共という言葉が持っている独自の硬直性や独自性を感じます。辻田さんはそうした日本独自の公共性の難しさや難点について、どのようにお考えですか?

山内泰

それは公共というものが我が事になっていなくて、自分のものだとあまり思えていないんでしょうね。これは政治参加が希薄なのと深く関係していると思いますが、公共という言い方をもっと変えればいいのかもしれません。さらに言えば、やはり政治に関与するルートを作る必要があるのだと思います。政治であれば、ある程度の有産階級や制限選挙の時にお金を払えたような層は、公共に対してイメージがつきます。自分が養っている範囲や、会社だったら会社の範囲は公共という視野があるでしょう。けれど自分一人で考えている人間は、公共に繋がりにくいので、具体的にどうすれば良いのか、確かに難しい所ですね。

辻田真佐憲

その場合、公や公共、あるいは中間領域に関わっていく時のアプローチやルートはどう考えればよいでしょうか?

山内泰

いきなり社会を変えようとすると、大きくなりすぎて絶対に無理で、ニヒリズムになってしまいます。日本全体をいきなり変えようとすると、すごくカルト的な世界に近づいていってしまうんです。昔だったらマルクス主義や革命などかもしれませんが、大きな無二なるものを持ってこないと実現できないし、その失敗からくるニヒリズムもまずくて、絶望の世界に行ってしまいます。

オウム真理教の信者がなぜ信者になったかという本を読むと、割と高学歴な集団で、それなりに良い所を出て、有名な電機メーカーに入って色々な製品を作っていたんです。それで社会が良くなると思ったものが、自分の作った新製品が一瞬で代替されてしまい、それに虚しさを覚えて出家した。そんな例がありました。そこでオウムなら世界を変えられるかも、と。それは大きな間違いで、真面目なのは分かるけれど、世界を変えることはそういうリスクを伴いますよね。

辻田真佐憲

5人から始め、地道に続ける

でも別に、新製品を作ることは人々に余暇が出来て、その余暇によって友達を作ったり、パートナーを見つけたりすることだって、社会を変えることです。その5人の生活を変えることは、それ自体が立派なわけですよ。そちらに考え方をシフトしないと「5人しか変えられなかった、絶望した、じゃあ宗教に行こう」というのはまずいですよね。ちゃんとした宗教ならいいですけど、そうした大きな話に行くと、その揺り戻しがすごく怖い。だからもう少し小さい所を変えていくだけでも立派です。人の意見はなかなか変えられないんだから、5人の生活を変えることもすごいことですよね。そうして一つ一つ変えていくことから始めるということに積極的な意味を見出した方が良いと思います。

だから例えば周りの5人10人を考えてみる。色々な人が10人ずつ変えていけば、大きな数になります。さらに10人でもいいし、20人でもいい。それぐらいを一つの目標にして、色々な実践をすることで良いと思います。10人を変えられるんだったら、デモをやるのもいいでしょう。それらが混ざり合ったら、日本が知的な雑居状態になって、色々な座談会をやって、面白い議論があることを人に見せることにもなります。あるいは自分で会社をしたり、NPOをしたりして、それで人々と関わって変えていくこともあります。人によって色々な実践のやり方があるはずですね。そうやって問題意識のある人が皆で働き掛けていくことを、ずっと時間をかけてやるということだと思います。

例えば保守化・右傾化だとさんざん言われる日本会議の人たちも何十年もやり続けてきたんです。彼らは昔もっと左翼が強い時代は、右翼というだけで馬鹿にされて、けなされながらも、ひたすらビラを配ったり、色々な集会をやったりする中で、いつの間にかものすごい影響力を持てるようになりました。そういうことをずっとやり続けることが大事で、いきなり大きな目標で、来年に即政権を取るようなことをしていると駄目なんです。もっと長い目をかけて自分の指標を世の中に浸透させていくことを、各人がやれる範囲でやっていくことが大事で、それが新しい公共を生んでいくことになるのではないでしょうか。

辻田真佐憲

雑居性に基づく公共性

辻田さんは近現代の日本人のありようを様々な観点から研究されています。そうした日本人にとって総合的・公共的な領域を作っていく際のポイントについて、最後にぜひお聞かせください。

山内泰

公共的な領域が作られるとすれば、やはり日本においてはある種の雑居ぶりで、文化的にも知的にも雑居であることを、肯定的な意味合いでいかに作り出すかだと思います。つまり上流/下流のように分かれていないからこそ、他の国にないような作品が生まれたり、議論が生まれたりすることに意味があるのです。またそれを失わないためには、今の日本社会がどういう移民政策や外交政策を取るべきかも導き出せますね。そして日本自身も、西洋と東洋の雑居的な文化を持っている。そうした日本が持っている純粋さというよりは雑居ぶりが、日本の公共性の議論をする時の一つの基盤になるでしょう。

個人に関して言えば、先ほどお話したように、独立した個人が大事だと思います。ですがそれは西洋的な意味で独立した個人というよりは、自分なりの共同体を背後に持っている個人ですね。それで、それぞれがいきなり日本を変えるというよりは、周りの10人をまず変えていくことをして、その集積が重なった時に何十年後かに日本社会が少しでも変わるかもしれない。それぐらいの感覚で取り組んだ方が、変に絶望しなくていいのかなと感じています。

辻田真佐憲

極端なもの、大きな空気に乗らずに、身の周りの5人10人から始め、地道に続けてみる。そうした公共性をかたちづくる実践においては、様々な共同体に支えられた「独立した個人」たちの関わりあう雑居性こそ基盤となる。そうした雑居的な文化を私たちは持っているのですね。公共性を自分事に引き寄せる多くのヒントをいただきました。ありがとうございました。

山内泰

(2022年1月17日オンラインにて収録)

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辻田真佐憲

評論家・近現代史研究者
政治と文化芸術の関係を主なテーマに、著述、調査、評論、レビュー、インタビューなどを幅広く手がけている。

山内泰

一般社団法人大牟田未来共創センター理事
ドネルモ代表理事
株式会社ふくしごと取締役
東京大学先端科学技術研究センター特任研究員