日本的な公共性=自分を支える共同体があること
日本的な公共性を求めて
その二回のリセットで総合的な関心を持たざるを得なかったとき、日本の公共性や公がどういうものになったかをお伺いしたいと思います。公共性についての基本文献にハーバーマスの『公共性の構造転換』があります。その西洋近代における公共性の議論は、市民の自律的・自発的な価値判断によって公共圏が形成されていく、というモデルが想定されています。一方で、そうした「強い市民」、個として自律していて自分の考えをしっかり持つ市民というモデルは日本に馴染まないという指摘も多くあります。
辻田さんは、日本には空気を読む忖度という形で、正規の検閲とは違うルートで自主検閲や自主規制を促し、むしろ権威の方を内面化していく歴史があったと指摘されます。そうしたあり方は、ハーバーマスが想定していた公共性からすれば機能不全の公共性にも見えます。そうした日本における公共性については、どのようにお考えでしょうか?
山内泰これはなかなか大きな問いなので難しいですね。西洋は主体的な市民という人たちが自分から色々と学習や政治参加して、社会を良くしていくというモデルで、もう少し悪い意味でいわれる日本的なモデルが「空気」ですね。空気に従ってその場その場で合わせて一貫性が無くても、波を乗り越えれば良いというものです。しかし先ほど話した西洋と日本のぶつかり合いは、まさにこの中間です。西洋の主体的な決定と、日本的な空気で全部決まってしまう気持ち悪さの間に、いかに公共性を作っていくかが、まさに日本のミッションだと思います。
例えばコロナ禍では、ものすごく自粛が強かったですね。そこでいきなり全ての日本人に対して、主体的に行動して空気を読まないで行動しろと言うのは、まだ無理で理想論です。かといって、空気の流れに乗るのは何も考えてないことになります。だからその間でどういう議論を作っていくかですね。空気と格闘するのは個別具体的にするしかなくて、その一つ一つが日本における公共性を作ることだと思います。
辻田真佐憲公共性を成り立たせる媒介
日本の近代史の中で、そうした公共圏が成立していた「日本的な公共性のあり方」の範例・モデルを求めることはできるのでしょうか?
山内泰例えば明治初期にあった福沢諭吉の「一身独立して、一国独立す」のような価値観は、まず自分の面倒を自分で見れるようにして、そこから初めて国について議論すべきだという議論です。それは自営業の話と繋がっていて、自分の生活を自分で見られるようになって、そこからどんどん公共的な議論をしていく。そうするとその間に媒介が挟まるので、いきなり抽象的な議論になりません。学生がいきなり天下国家を論じると、すごく抽象的な議論になるけれども、やはり社会の中で色々と経験を積むと、人を動かすことの難しさは分かります。しかしそれでも変えないといけないという切実さも生じます。
明治初期の市民は抽象的な市民ではなくて、武士も含めて自営業的な存在です。自分で組織をして、人を雇って回していく自分なりの共同体を持っています。そういうものが背景にある議論は非常に公共的なものになるのではないでしょうか。
辻田真佐憲日本的市民像の転換
たしかに一般に「市民」という場合に、誰が念頭に置かれているのだろう、と思います。
山内泰日本における市民というのは、一般的な左翼的な議論だと、中央線に住んでいるようなサラリーマンが市民だと思っているケースが多いと思います。でもそれは会社に依存しているし、いざ会社を辞めてしまうと、運動するにしてもお金がなくて手弁当だから応援力もなく、衰退しているようです。そうではなくて、日本における市民というのは、むしろ地方でちゃんと基盤を持つ人たちです。こういう自分の会社や農業をやっている人たちは自分で自足しているので、最終的にはすごく強い。例えば会社に非難の電話をされたらすぐ謝るのではなくて、不当だと思えば戦える。法律も知っているから、社会に対する提言にも実感がこもっています。
だから日本における市民像を少し変えないといけないと思います。中央線のサラリーマンでなくて、地方で経営・自営している人を市民としてもう一度捉え直すことから、公共圏を組み立てられないでしょうか。実際に彼らは色々な勉強会や講演会をしたりもしています。
ただ現在は知識人が大学などに引きこもってしまった結果、そこに呼ばれるのが割とデタラメな人たちが多いという問題を感じます。その地方で色々やっていて勉強もしたいという人たちと、東京でやっているような知識人をうまく接続することをもう一度やらないといけないと考えています。
辻田真佐憲基盤なき人たちの公共性のためにー自己責任論を超えて議論すること
自営業的な市民が地域や社会のことを考えている一方で、当事者運動のように名も力も無い人たちが「ちゃんと自分のことを考えてほしい」という形でやって来た面もあるかと思います。例えば日本においても障害者の当事者運動は、独特の歴史を持っていて、大阪の青い芝の会の『母よ!殺すな』のような話もありますね。そのように何らかの原因で基盤を持ちえない立場の人たちは、今考えている公共性の中でどんな風に関わったり、環境を作っていったりできるものでしょうか?
山内泰それには知的な雑居のような議論の場を作ることが、とても大事だと思います。誰でもいきなり自立できるわけではないし、自立しても何かをきっかけに自立できなくなることは、当然あります。その中で自分は今たまたま自立できていて、公共的に考えているけれど、そうでは無くなった時にどうするかは、普通に考えないといけませんね。
自分一人でやっている人たちは、保守的でマッチョになってしまい、自己責任論者になりがちです。日本は自己責任論者が強くて、「困っている人を助けなくていい」という答えにイエスと答える人が世界的に見てとても多い、困った社会ですけれど(笑)、ただそうした人たちにどうアプローチしていくかを考えることが、知識人の役割だと思います。
私はそのために、今は自立していても年を取ったら動けなくなる可能性もあるし、たまたま怪我をするかもしれないし、自分の親族はどうなるのかといった例をいくつも紹介したりします。例えば生産性に関する議論があります。「生産性の無い人間は駄目だ」と言う人たちがいますが、遡ると戦間期のドイツでそうした議論がまさにありました。第一次世界大戦の結果、たくさんのひとが高度な障害を負った。かれらに医療費がたくさんかかる。これをどうするのかという議論です。そのなかで『生きるに値しない命を抹殺する行為を解禁』というとんでもないタイトルの本も出ました。これはカール・ビンディングとアルフレート・ホッヘという法学者と医者が共著で書いたものですが、のちにナチスの障害者の殺戮の思想的バックボーンになったと言われる問題書です。
カール・ビンディングという法学者はナチ時代の前に亡くなるんですが、アルフレート・ホッヘという医者は、ナチ時代に生きていて、実際に障害者を抹殺するT4計画を見ています。しかし彼はそれを絶賛せずに、反対に回りました。それは彼の親族がまさにその対象になったからです。このように「生産性の無い人は抹殺していいんだ」と言う時は、自分のことだと捉えていません。「自分は大丈夫だ」「自分の親族は大丈夫だ」と思っているけれど、それには保証が無いんです。自分がいつどうなるか分からないし、親族が対象になるかもしれない。でもいざ自分の親族が対象になった時に、反対に回っても手遅れです。これは一つの大きな教訓になると思います。
このように日本の自己責任社会を主張する人たちに対して「皆さんの親族に対して広げていくとどうですか」「あなたたちもこの後どうなるか分かりませんよ」といった事例を紹介して、少し考えを変えてもらうようにアプローチしていく。それが私のような人間の役割だと思っています。だから真に自立するということは、そこまで考えての自立なので、「自分が健康だから他はどうでもいい」というのは公共的ではありません。本当に共同体を考えられるのは、そこまで包摂できて初めて自立した時です。
辻田真佐憲