公と共と私たち
呼びかけの声を聴く−テレコミュニケーションの公共性 (3/3)
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呼びかけに応じるミメーシス

テレコミュニケーションにおける呼びかけやテレパシーの話は「単なる気のせい」にもされがちです。それらが単に恣意的なものでないとしたら、そこにある必然性はどんなものなのでしょう?

山内泰

「引っ張られる」感覚:ミメーシスの経験

ミメーシスの話がヒントになるかもしれません。ミメーシスは日本語にすると「模倣」や「真似」となり、悪い意味にとられがちです。だけど真似て反復することは、実は単なる縮小再生産に終わらないのが面白い点で、そこには創造的なものが含まれているのです。

こうした話は古代ギリシャのアリストテレスからあったのですが、より論理的にカントが追究しています。正確に何かを反復すると模倣品としては精巧できめ細やかな複製ができ上がることはある。でもそれだと物足りない。一方で、一見すると正確には真似できていないのに「これはこれで良い味が出ている」「より迫力がある」ということが往々にして起きる。それは次のように説明できます。これは遡れば、自然の対象を模倣していることになるのだけれど、このミメーシスは、実は産出された自然(所産的自然)の単なる模倣に留まらず、自然を生み出している働きそれ自体(能産的自然)を真似ているんだ、と。だからこそ「真似ないことこそが真似ている」という逆説になります。そこにミメーシスの根本があり、それが人間的な自由の本質なんですね。

これは日常的にも見出せることだと思います。職場ごとに必要な職能や技術がありますね。プロでやっている人なら最初に修業時代があり、そこでは師匠の型などを反復で真似する。やがて精巧に真似られるようになるけど、そのうちそれだけでは「収まりが良くない」となり、「自分はこうした方がすんなりいく」ということが自然に起こる。日本の伝統芸能では「守破離」と呼ばれたりしますが、何か道や技能を追求していくと、与えられたものを完璧にこなす次元に加えてプラスアルファが見えてきて、その瞬間に避け難い必然性というか、何か引っ張られるような形で受動的な創造性が現れてくるんです。

自分で言えば論文を書く場合ですね。ある程度のプランは立てるけれど、全部用意して書き始めるわけではないんです。あらかじめ与えられた道を最初は敷くけれど、それでやっていると収まりがつかなくなったり、つまらなかったりして、やがて「こうすればもっと上手くいく」というのが見えてくる。そこで踏み出される一歩は「引っ張られる」という感覚ですね。

自分で能動的・創造的にやろうというよりも、面白いことに「こっちで行った方が絶対によさそう」という確信が降ってくるんですね。それは絶対に恣意的ではないんですよ。人から見たら恣意的に見える可能性はあるけど、自分にとっては一貫していて、必ずしも客観的に説明できるわけではないんですが、引っ張られるんです。もちろん上手くいかないこともあるけれど、「こういう設計図があって、こういうものが実現しました」では説明がつかない、単なる複製原理では説明がつかないプラスアルファが、ミメーシスの過程のなかで生まれてくるんです。

宮﨑裕助

ミメーシスにおける「引っ張られる」という感覚は、テレコミュニケーションやテレパシーにおける「呼びかけ」に対応しているようです。そうした事柄に引き寄せられるという経験において主観が乗り越えられている。では、そこで私たちに「呼びかけ」、「引っ張っている」のは何なのでしょう?

山内泰

統制的な理念でもなく、構成的な原理でもなく:物質性の次元

カントの『判断力批判』を批判的に捉えなおすポール・ド・マン(アメリカの文芸批評家)の議論を切り口に考えてみましょう。ド・マンは、詩人が星空や海原を見て感じる何かに着目します。それは崇高な感情ではあるけれど、そこには「これは海原・星空である」という理解以前に感じるような、当の感性そのものをくり抜いてしまうような、知覚そのものが提起する無意味さ・意味以前の経験がある。ド・マンはそこに詩が始まる契機を読み取っており、それを「物質性」と言います。ド・マンの議論は、カントの『判断力批判』を単に構成的ではなく、また統整的な理念とも言い切れないものとし、むしろ物質性の次元(唯物論)があると読み込んでいくものです。

宮﨑裕助

他者が呼び込まれる

これは他者とどう向き合うかという話ですね。物(もの)というと言葉が漠然としていますけど、主観化できない主観を超える他者性とも言えます。芸術作品だったら、画家であればキャンバスだったり、筆先や絵の具だったり、対峙すべき物質が必ずあるわけです。でもこれはいわゆる物質と人間だけでなく、人間同士でも言葉があります。言葉は物だし、一人で論文を書く時でも言葉を使うわけです。概念にもある種の物質性があると言えますね。

引っ張られるという経験は、自分の思い通りにならない「物」と交渉することです。そこでは常にミクロな対話が、自分の身体と意識を超えたところで生じているわけですね。

『人間の条件』の著者ハンナ・アーレントの議論によれば、人間という有限な死すべき者が何で他の動物と区別されるかというと、そうした「物」との交渉、広い意味での他者との関わりを持っているからです。その人が死んでも、その物は公共化され、別の人に共有化されて、さらに住む場所を作ったり、記念碑的な物になって、歴史をつくり出す根拠になったりします。一人ひとりの個人の有限性を完璧に克服するわけでは無いけど、物の時間性を通じて別の時間性に置きうつすことができるのです。そのことによって、人は単に生きて死ぬだけの生物学的な存在ではなくなるんですね。

テレパシーの話でも「この石ころはほとんどの人にはただの石ころみたいだけど、何か気になる」となって、子供がドングリを拾い集めるように家に持ち帰って眺めてしまう。物がある限り別の時間性を引き継ぐことがあります。そこに新しいメッセージというか、受け手が呼びかけを勝手に読み込んでしまうという伝承の連鎖が生じるんです。

宮﨑裕助

「物質性」の次元との交渉を通して、個々人が有限性を超えていけるという話は、反省的判断力の主観的な普遍妥当性と同じ構造だと思いました。主観的でありながら、他者性が呼び込まれてしまう。そんなありかたに公共性があるというお話ですね。最後に、テレパシーやテレコミュニケーション的な公共性を社会に開く上で、どういうところが大事になってくると思われますか。

山内泰

なかなか大変な問題ですが、まさにそれをずっと考えようとしています。まず、いかに時間軸・時間性を複数化するかでしょうか。SNSは同期性が高すぎて、すぐに反応が返り、考えていることの帰結が出ます。でもそれによって社会はもう動いているし、そこから手を引くのも、現実的に無理だと思うんですね。同期性の高いネットワークにある程度関わらざるを得ない前提で、それに絡めとられない時間性を作り出すことです。

その点で、どういう「物」を自分の周りに配置していくかが問われるのではないでしょうか。たとえば、何らかの他者性の引っかかりになるような物を、手放さないで身の回りに置いておく。自分にとっては本がそうです。買ってもすぐに読まないんですよね。読むものもあるけれど、置いておくことが重要なんです。それである時、めちゃくちゃ必要になったり、それこそ「下りてくる」感じで「おおっ」となったりする(笑)。

自分の最近の話ですが、引越しでこちらに来たら本を置く場所があまりなくて(笑)。めちゃくちゃ詰め込んでしまい、どこにあるかも分からず、それと一緒に頭の中がぐちゃぐちゃになってしまったような感覚で、まだ立ち直れていません(笑)。本棚がちょっとずつ形成されていくことは、自分の頭の中と思考の繋がりが形成されていくのと完全に連動していて、時間と物の関係ができるんです。自分の場合は本だけど、人によって物でなくても良いわけです。要するに交渉できる他者性があるかどうか。

普段に暮らしていて、いろいろと引っかかるものがあると思うんですよね。そうした引っかかりみたいなもの、いわば「呼びかけ」を聴けるかどうか、自分が呼びかけられていると思っているかどうかですね。そんなものないと言われたら、もう終わりなのですが(笑)。確かに断捨離とかミニマリズムで済むなら結構なことでしょう。でも記憶というものがある限りそういうことにはならないと思うし、大人になればなるほど、何年何十年と生きていて、引っかかりを抱えて生きてきたはずだから、いろいろな現れ方があると思うんです。楽器がそうかもしれないし、靴や小物や何か趣味のこだわりとかいろいろなフェチとしてある人もいるかもしれない。そういうものを絶対に抑圧しないで、接点を大切にすることを、どうやって日常的に保つかということですね。自分だけの尺度に沿った時間の過ごし方が必要です。

宮﨑裕助

物だけでなく、人もまた「物性・他者性」を持っている。そこから「呼びかけられている」としか言いようがない体験は誰にでもあるはずで、それを抑圧せずにいようということですね。それは、SNSなどリアルタイムでの共感や情動の共同性が求められる昨今において、客観的とされるエビデンスに依拠するかたちではなく、主観的な感覚の公共性を見出す上で前提となる議論だと思います。ありがとうございます。

山内泰

(2022年2月7日オンラインにて収録)

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宮﨑裕助

専修大学文学部教授
「情動」をキーワードに、現代における人々のつながりや紐帯のありかたを考える理論研究に取り組む。

山内泰

一般社団法人大牟田未来共創センター理事
ドネルモ代表理事
株式会社ふくしごと取締役
東京大学先端科学技術研究センター特任研究員