公と共と私たち
呼びかけの声を聴く−テレコミュニケーションの公共性 (2/3)
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「共感や情動の共同体」を超えて

なるほど。権利的なものがいかに事実的になるか、という点で、宮﨑さんは、反省的判断を通して事実が形成されていく、その構成力を積極的に評価したシラー(ドイツの詩人、作家)の難点も問題にされています。

山内泰

「美的なつながり」の強さと暴力

個別で主観的なものから出発せざるを得ないけれども、それでも共有すべきものがある。「美しい」ということはそれを要求しているし、実際にその歴史の積み重ねが文化を豊かにし、私たちはそれらの上に共同体を築くはずである、と。そうやって美的な共同体を国家の基盤にすべきと踏み込んで議論したのがシラーです。

でもそうした途端に、美的なものが自らを裏切っていきます。これは共通感覚の教科書を作るような話で、「子供の情操教育においては、こういうものを美しいと見なすべきだ」という規定的判断に転化してしまうのですね。制度の根拠として美的なものを考えた場合に反省的判断ではなくなるという本末転倒の事態、そのような罠がここにはあります。

まだシラーの時代は楽観視できたのかもしれませんが、決定的にまずかったことを歴史が教えています。ナチスです。政治を美的に演出することで人々の情動を結集し、国の統一を図ることで国家を芸術作品として彫琢する。そんなナチスの発想を、ベンヤミン(ドイツの文芸批評家、哲学者)は「政治の美学化・審美化」と言って批判しました。

宮﨑裕助

美的なものの強い構成力が、「国民」としての人々を結びつける一方で、人種迫害のような排除と暴力も生み出したわけですね。

山内泰

感性的なものは、私たちの経験の基礎になるべき解放性の原点です。それが20世紀前半に「政治の美学化」という最悪のものに繋がってしまった。この感性や情動の両義性に私の関心があります。デモクラシーの話でも、多様で個別的で特異的な民衆の情動がいかに結びつきあうかを問うています。それを20世紀の政治の美学化以降の問題として考え直したい。それが一番大きい私の関心ですね。

宮﨑裕助

民衆の情動の結びつきという点で、宮﨑さんはポピュリズムの問題も論じています。20世紀を経た現代におけるポピュリズムと情動の問題を考える上で、どんな論点があるのでしょうか?

山内泰

情動のポピュリズム

ポピュリズムは一般には大衆迎合主義なとど訳され、侮蔑的なニュアンスで使われることも多いですが、ピープルが入っている言葉で、人民主義という意味でデモクラシーのラディカルな表現とも言えます。ポピュリズムを本質において捉え直し、同一化の原理として捉えない方向で、どうやってやり直せるのかを問うてきました。

議論の核になっているのは精神分析学の創始者フロイトの集団心理学の有名な論文です。ポピュリズムを構成的な原理で説明してしまうと、カリスマがいて皆が同一化する形式があるという話になります。でもフロイトをよく読んでいくと、その同一化を担う主体は強い英雄的カリスマでなくてもよく、父のような存在でなくてもよい、何かがその中心を担うことはたまたま起こり得る、などというように大きな留保がついており、フロイトは自身の議論が全部崩壊しかねないような話もしています。それらはポピュリズムの本質をカリスマや人気取りのアイコンに回収せず、ポピュリズムによる集団形成がいかにあやふやで、いろいろなきっかけで生じうるものなのかの鋭い洞察になっています。

この問題を考える上では、今日のメディア環境が前提となります。SNSをはじめ私たちのコミュニケーションは、メディアを介した情動の繋がりによって進行します。ポピュリズムは多層的な情動と結びついていますが、現代のポストトゥルース的な状況、しかもそこに高度なテクノロジーが入り込んだ状況のなかでは、情動にさまざまなレベルで動員がかけられています。あらゆる行動データやライフログをビッグデータとしてAIで蓄積・分析され、それが広告に使われ、さまざまな商品開発に利用されるなかで、自分が意識的・自覚的・理性的にやっていると思っていたことも、実はそうした資本主義の論理に焚き付けられています。

他方でキャンセルカルチャーも問題になっています。これまでのアイデンティティ・ポリティクスから多面的に発展してきたフェミニズムやLGBTの取り組み、人種差別の解消のために地道に積み上げられてきたことも「敵認定」して一刀両断するという原理で進められており、これまでの蓄積を否定しかねないものです。やたらと争点だけが尖鋭化して相手を潰し合い、遺恨がくすぶり続けているような、悪い意味でのポピュリズム、分断の政治がSNSを通じて拡がっています。

簡単ではないですが、こうした状況に情動の原理の側からいかに抵抗できるのでしょうか。そこを本格的に取り組むには、まさに資本主義の問題に取り組まないと駄目で、私自身はまだそこまでは出来ていません。ポピュリズムによって、人々の情動が不安定になったり、一時的なものになったり、方向性もよく分からなくなることが生じているなかで、人々の繋がりや政治的な紐帯のあり方を考え直すことが求められています。あらゆるものが情動に動員されて、瞬間的なポピュリズムの敵か味方かに選別されてしまう時代に、共感の同時性というか、同時代の共同主観性を超えるようなものをどうやってつくり出せるのかを考えたいと思っています。

宮﨑裕助

政治の美学化やポピュリズムに対して、美的なものや情動を単に構成的な原理として捉えず、別のつながりの原理と捉える点がポイントであるように思います。宮﨑さんが「情動の政治」や「共通性なき共同性」というキーワードで考えられていることですね。それらはどういうものなのでしょうか?

山内泰

共有すべき感情や絆を、あくまで主観的な次元で特異なものとし、その特異性に初めの一歩を置くのであれば、皆がバラバラのままになってしまい、共同体という話にはなりません。そうした「ならなさ」自体を共同性として考える共同体論もあります(ナンシー『無為の共同体』、ブランショ等)。「共通性がないことこそが共通性なんだよ」というもどかしい話です。あるいは、それが反転して多様性そのものに積極的な共同性を打ち出す共同体論(ネグリ=ハート『帝国』におけるマルチチュード)を考えることもあり得ますね。20世紀の全体主義以後に考えうる共同体論の最低ラインを引いた上で、そこからどの方向に行くのか。私自身は、20世紀の哲学者ジャック・デリダの線で考えたいと思っています。

宮﨑裕助

シンパシーでもエンパシーでもない:テレコミュニケーション/テレパシーの呼びかけ

私が注目するのは「テレコミュニケーション」という言葉です。コミュニケーションはコモン化(共通化)するということですが、デリダによれば、隔たったものがコモン化するところには、その隔たりを縮めるコミュニケート以前に、何か「呼びかけ」のようなものが必要だと言います。

コミュニケーションを始めようという時、すべてのものと一度にコミュニケーションはできませんよね。何かに呼びかけられてコミュニケーションし始めるわけです。その手前の「コミュニケーション以前のコミュニケーション」にテレコミュニケーションの次元を考えています。そんな「呼びかけ」に何かヒントがあるように思うのです。

同じように、シンパシー(同情)やエンパシー(共感)ではなくテレパシーに可能性があると考えています。これはフロイトの議論ですが、精神分析で患者の話として、戦地に行ったはずの息子の声を、あるときなぜかその母親が聴いた、と。そして実は、その時に息子が亡くなったとか、危機に陥っていた。ある種の「予感」とも言えますね。気のせいとか偶然の一致だとして「統計的にはあり得ることです」と片付けられそうな話ですが、フロイトによれば、実はこれは無意識のコミュニケーションと考えられ、説明できるともされています。

宮﨑裕助
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宮﨑裕助

専修大学文学部教授
「情動」をキーワードに、現代における人々のつながりや紐帯のありかたを考える理論研究に取り組む。

山内泰

一般社団法人大牟田未来共創センター理事
ドネルモ代表理事
株式会社ふくしごと取締役
東京大学先端科学技術研究センター特任研究員