公と共と私たち
呼びかけの声を聴く−テレコミュニケーションの公共性 (1/3)
呼びかけの声を聴く−テレコミュニケーションの公共性 - 公と共と私たち

宮﨑裕助

専修大学文学部教授
「情動」をキーワードに、現代における人々のつながりや紐帯のありかたを考える理論研究に取り組む。

山内泰

一般社団法人大牟田未来共創センター理事
ドネルモ代表理事
株式会社ふくしごと取締役
東京大学先端科学技術研究センター特任研究員

例えば「公園」が私的な空間ではないとされるように、公共性を巡る議論において「公/パブリック」と「私/プライベート」は区別されてきました。もっとも硬直化・建前化した公的領域と同質的・閉鎖的な私的領域が分断された昨今の状況に対して、この区別を批判的に捉えなおす必要があるでしょう。そのためにも、本来個別で主観的な「私」の領域がいかなる意味で「公」と関わるのか、改めて考えたいと思います。
こうした問いを伝統的に考えてきたのが、感性や情動における公共性を論じる近代美学です。今回は、現代的な問題意識から美学を捉えなおす宮﨑さんと、現代において共同体を考える際の論点、そしてそれを乗り越える「テレコミュニケーション」の可能性について、問いを深めていきます。

主観的で公共的―「美的なつながり」の理論

「エビデンスは?」と言われるこんな世の中で

昨今では、客観的なエビデンスの有無がかなり広い範囲で問われるようになりました。もちろん必要な面も多々ありますが、一方で、影響力ある人の発言に「それはあなたの感想ですよね」があるように(笑)、私たちの主観性はいよいよ切り詰められているように思います。でもそれは素朴に主観と客観を区別できるものとし、「客観的」とされる基準のみに依拠してしまう危うい状況でもあると思います。

こうした状況に対して、主観的な関わりのなかにある豊かさや公共性を積極的に捉え直したいと考えています。宮﨑さんだと「情動の政治」「情動のデモクラシー」という言葉で考えられていることですね。最初に、宮﨑さんが「情動」に注目されるポイントを教えてください。

山内泰

私の関心は「情動」をキーワードにしていますが、人間のいろいろな感情を「喜怒哀楽」といったカテゴリーに整理分類する哲学をしたいわけではありません。何かを決断したり、何かに誘惑されたり、感動したりする、そんな決定的なところで、カテゴリー化できないもの、概念化できない契機がアンビヴァレンス(両面価値性)として現れてきます。そこに情動に注目するポイントがあります。

宮﨑裕助

「反省的判断力」という冒険

この問題はいろいろな方向に開かれています。私が出発点としたのは、近代美学の祖カント『判断力批判』における反省的判断力の問題です。

一般に「判断」という場合、何か個別の事象をいろいろな概念や法則に当てはめることを言います。「目の前にある〈これ〉は、〈ボールペン〉だ」という判断です。こうした判断をカントは「規定的判断力」としました。

ただ人間には、既存の知識・概念・法則・規則に依拠できない新しい経験や出来事が起こります。そうした場合の判断はいかなるものか。これをカントは「規定的判断力」と区別し、個別から一般的な法則・規則や概念を立ち上げようとする「反省的判断力」と定義したのです。これはある種の創造ないし発見の原理で、法則や概念がまさに立ち上がってくる瞬間ですね。先ほどのお話で、主観的なものから普遍性を立ち上げないといけない時に、必要な判断力です。

ただこれは非常に難しい判断で、そんなものが簡単にできれば苦労しません(笑)。しかし「それは追究に値する」と言ってカントは『判断力批判』を書いたんです。ここでは「この定式に基づけばこんな解が出る」という演繹的な発想では対応できない問いが立てられています。『純粋理性批判』や『実践理性批判』におけるカントと比べ、かなり冒険している問いです。

宮﨑裕助

「主観的な普遍妥当性」という矛盾

この問いがチャレンジングなのは、情動や情感の話になっているからです。『判断力批判』では主観のなかに生じる「快」の問題を立てています。快というのは一人ひとりが感じることで、他人には分かりません。そして自分の経験であったとしても、言葉を当てるとどこかにいってしまうんです。

その典型的な例として「美」の問題があります。カントにおける美の判断はこういうものです。例えば、目の前に花があり、この花が「何の花なのか」を前提としないで見たときに、目に映る感覚から何をあなたは感じるでしょうか? この時に「美しい」と思う感じが残るとしたら、その「美しい」には単に「良いね」「気に入った」とかではなく「他のみんなも美しいと感じるべきだ」という語感が含まれています。主観的な美の判断には、普遍妥当性という要請・要求が含まれている、つまり普遍性へと転化する瞬間があるとカントは言うのです。この経験がまさに反省的判断力のお手本になります。

宮﨑裕助

主観的でありながら、普遍的に妥当しうる。一見すると矛盾したありかたですね。

山内泰

そうですね。感情や感覚は最も個人的で隠されたもので、だから他者と共有できる言葉をあてがうと「ちょっと違うな」となりがちです。そんな経験にある種の普遍性を要求する問いをカントは立てています。

しかも、この問いはある種の政治的な課題にもつながっています。「美しいと思うべきだ」という要請は、政治的または共同的な経験における同意・賛成をめぐる問いへと繋がっていくんです。単に論理的な正しさの問題ではないところがポイントです。

宮﨑裕助

実は「政治的」な美的感覚

哲学者も他の学者も、論理やデータ等による証明によって「これは正しい」と人々を説得したり、同意を求めたりします。論理的な正しさやエビデンスが、人々に何かを共有して納得してもらう上での学問のお約束・科学的な条件になっているわけです。しかし実際には、それ以前の感情や情動の次元で同意を求める用意ができている必要があります。そうした用意がないとそもそも説得したり理解してもらおうということすら始まりません。共通感覚やコモンセンスと言われる感性的な土台を前提として初めて論理的な説得も可能になっているのです。

だとしたら、最も政治的なのは情動・感情の次元なのです。カントは『純粋理性批判』で理論哲学、『実践理性批判』で実践哲学や道徳哲学を行いました。しかしこれらを一つの哲学として完成させるうえでは美の次元を扱う『判断力批判』が不可欠と考えた。情動や感情は、伝統的な哲学では「考えても仕方ない」「感情的なものは主観的で皆バラバラで、多様で説得できない」と考えられがちですが、カントは伝統的には「趣味の問題」として斥けられてきた次元にこそ本質的な論争もあり得るし、追究すべき問題があると言っているんですね。

宮﨑裕助

主観的な普遍妥当性を要求しうるという点で、カントはこれを事実問題ではなく権利問題だと言いますね。事実として多数から人気なので「美しい」とすると、その美は既存のエビデンスに基づく規定的判断になってしまうけれど、反省的判断はそうした事実に依拠しない権利問題である、と。

山内泰

これについては、権利問題・事実問題として切り分けることよりも、権利的なものが事実的にはどう立ち上がってくるかが、より根本的な問題だと思います。その緊張関係を常に考えていかないと、まさに可能性の問題に留まってしまいます。だから権利問題と考えて分かった気にならないことが必要ですね。

美が普遍的なものとして立ち上がることは、常に絶えず掘り返されて起こるものだと思うんです。数学の公式のように、一回普遍化されて「これが〈美しいもの〉になったので、後はみんな考えなくていいですよ」ということではなくて、常に後から来る人が絶えず追体験や確認して豊かにされていく。その普遍性は、すべての人が美と思うという意味では事実上は普遍だとは言えないけれど、論理的にいえばすべての人に当てはまらないといけないので、そういう意味で権利問題にとどまります。ただそれは、単に権利問題なのではなく、常に提起され、掘り返され、追体験されて実際に共有されていくことで歴史的事実へと再編成されるのです(言うなれば「歴史的アプリオリ」の問題です)。

宮﨑裕助
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宮﨑裕助

専修大学文学部教授
「情動」をキーワードに、現代における人々のつながりや紐帯のありかたを考える理論研究に取り組む。

山内泰

一般社団法人大牟田未来共創センター理事
ドネルモ代表理事
株式会社ふくしごと取締役
東京大学先端科学技術研究センター特任研究員