テクノロジック・リフレーミング

vol.6 なぜ技術の話だけでは難しいのか?

渡邊淳司

NTTコミュニケーション科学基礎研究所 上席特別研究員
触覚をテーマとした人間情報科学の視点から、ウェルビーイングを探求している。

木村篤信

株式会社地域創生Coデザイン研究所 未来の社会システム探索チーム
一般社団法人大牟田未来共創センター
東京理科大学客員准教授

山内泰

一般社団法人大牟田未来共創センター理事
ドネルモ代表理事
株式会社ふくしごと取締役
東京大学先端科学技術研究センター特任研究員

本シリーズでは、哲学者や福祉の専門家、テクノロジストなどをゲストに、社会における技術の意義を問い直してきました。今回は改めて、そもそもどうして技術の話だけでは難しく、社会的文脈を意識する必要があるのか、改めて考えたいと思います。

社会のなかで形成される意味・価値

科学技術の研究開発は、物理学・化学などから始まり、心理の追求という科学観に基づいて発展してきました。しかし高度経済成長の中で科学技術の力が広まるとリスク(公害や原発事故)を無視できなくなり、何のための科学技術かが問われることになったのですね。

技術の負の側面として、従来では(公害のように)身体的な危害が中心でした。一方で、NTTのような情報技術においても、例えば、顔の画像認識や街の情報をセンシングする場合に、プライバシー侵害が懸念されます。実際にトロントのスマートシティ構想では住民の反対運動がありました。

木村篤信

プライバシー侵害のような事態では、懸念される状態が数値などで明快に示すのが難しくなりますね。

山内泰

私は、Well-beingを「よい状態」ではなく、「よく生きるありかた」だと言うことが多いです。状態とすると、Well-beingを目標変数と捉え、その数字をいかに実現するかという制御技術の話になってしまいがちです。それは、人間の内面を制御できるという思想を前提にすることにもなります。また、これは「機能」と「意味・価値」の違いとも関連します。機能は外部から観察できますが、Well-beingのみならず、意味や価値は内面に生じ、受け取り手の数だけ存在します。予め外部で一義的にWell-beingを定義し測定することは、そこに当てはまらない人はWell-beingではないということを暗に意味することになってしまいます。

渡邊淳司

機能ではインプット・アウトプットが予め決まっている一方で、意味や価値は社会の中で決まってくるものです。その点で技術の意味や価値を社会にどう問いかけていくか、その視点が求められますね。

山内泰

環境化された技術との付き合い方

ジュンジさんは以前から、人間を制御しようとする技術に対して、人間の自律性を促す技術を考えることを提案されています(vol.3 制御型から自律型へ:「ウェルビーイングの探求」を支える技術のありかた)。 そうなると、ジュンジさんの触覚に関するアプローチやナッジ等、人の無意識に働きかけることになりますね。それはまた人に大きな影響を与えるものでもあると思いますが、その辺りはどうですか?

木村篤信

その点については、自分たちが「どのような技術に関与しているか」を意識することが重要だと思います。体験の次元が無意識であっても気持ちよいと感じること、つまり快楽主義的ウェルビーイングは充足されますが、自分がどんな技術やメディアに触れているのか自覚するメタ認知的視点がないと、自身の人生の意義や生きがいといったユーダイモニア的なウェルビーイングは充足されないと思います。

渡邊淳司

環境側から無意識に働きかける技術に人が無自覚であることには、どんな問題があるでしょうか。

山内泰

何より、ユーザーが中毒になったりユーザーを依存させることで、その人に選択肢がなくなることが問題です。選択肢があることは人の尊厳につながっていると思います。「それしかない」と追い込むのではなく、他にもいろいろあるなかで選択できることをちゃんと示すことが大事でしょう。

渡邊淳司

この話は、例えば「認知症の高齢者にGPSをつけるかどうか」というかたちでも問われますね。無意識の領域に関わりながら、そこに選択肢がある状況をどう作っていけるでしょうか。

山内泰

自分がどんな技術やメディアに触れているかを自覚でき、選択できるようなプロセス設計が大事だと思います。GPSの話も、「自分なりに使いたい」と選択できるプロセスがあれば使うのが良いという議論もありました。テクノロジーそのものは変わりませんが、人が関わりたいと思える余白を含めプロセスをどうつくるか。そこが問われています。

木村篤信

社会的文脈における技術の位置づけ

プロセスにおいて人との関係を作っていくわけですが、制御の技術の考え方だと「測る側/測られる側」に分かれがちです。そうではなくて、関係する人の真ん中にセンサーデータがあって、それについて一緒に議論したり、使って一緒に遊びながら探索したり旅に出たりする。そんなチームメイトになっていくことも、プロセスでは重要でしょう。その点で、僕は最近DAOに注目しています。

渡邊淳司

サービスドミナントロジックの「A to A(Actor to Actor)」のような関係でしょうか。そこで技術は、関わる人たちがいきいきと振る舞うことを媒介するもの~ジュンジさんの言う自律的技術~になっています。それは「技術の位置づく文脈」を問うことでもありますね。

山内泰

そのように「技術が社会的な文脈にどう位置づくか」を考えることはELSI等でも注目されており、サービス開発でも重要になってきています。今日の技術が位置づく社会的な文脈を考えると、すでに情報技術は生活の細部に浸透している状況です。Society5.0でも人間中心が謳われていますが、そこで目指されている人間観や価値観を問い直したり、メディア環境を自覚できるきっかけをつくったりすることこそ重要でしょう。

木村篤信

一方で、制御的な技術が必要な局面もあります。例えば病院では、一意に決まる医学的処置であれば正確で効率的になされる必要があるでしょう。また、機能の一部として役割を果たすことにやりがいを感じる人もいるでしょうし、場面によってそのような形で振る舞うことを望む人もいます。もちろん、そこでも「機能の一部であること」に自覚的であることが大事です。

渡邊淳司

制御的な領域とWell-beingな領域を、社会のなかで混同してしまうことへの懸念ですね。

山内泰

多様な「技術」のありかた

個々人のWell-beingに適った状況を実現するにしても、例えばオーダーメイドの給食をセントラルキッチンから配給する制御的なシステムをめざすのではなく、食材が支給され、個々人が自分の食べたいご飯を自ら調理することができるような環境を地域コミュニティにどう作るか考えることもできますよね。

渡邊淳司

制御的な技術そのものが問題なのではなく、むしろ「技術は制御的である」と技術そのものを狭く捉えてしまうことが問題なのだ、と。技術はもっと多様な可能性を持っているのですね。

山内泰

その点でいえば、日本は技術の意義を効率化だとする見方が強い傾向もあるようです。総務省の情報通信白書(令和3年度)でDXの効果に関する意識調査が掲載されていますが、欧米が新規事業創出や製品・サービスの付加価値化に効果を見出している一方、日本ではそれらに効果を見出す人は少なく、突出して多いのは「業務効率化・コスト削減」でした。

木村篤信

技術のイメージが制御型に閉じてしまっている感じがしますね。自律型の技術のイメージは、まだあまり持たれていないのかもしれません。

山内泰

欧米は、人間をエンパワメントする環境として技術を捉えているのかもしれません。データやテクノロジーを環境として捉える視点は日本にはあまりないですね。その差が大きい感じがします。

渡邊淳司

一方で、現実はかなり技術によって環境化されています。それが環境として意識されていないのは、ジュンジさんが指摘している問題ですね。

山内泰

いつでもデータが取れるようになったデジタル環境の意義は、「人にとってのクライマックスをフィジカルにつくること」だという考え方があります。それを厳密に実現しようとすると、環境側からの制御ということになりますが、一方で、ある程度のゆらぎや余白があることで、使う側に委ねられていると考えることもできます。対象への干渉か環境の醸成か、制御か委ねか、そこに倫理の問題として考えるポイントもあるのです。

渡邊淳司

(2023年1月27日オンラインにて実施)