不便益を擁護する文化基盤をつくる
資源利用の根本にある「人々の欲望」のかたちが変わることに可能性を見い出すわけですね。利便性や効率性ではなく、DIYのように手間暇をかけることを楽しむサービスも注目を集めています。そうした価値転換が進むポイントは何でしょうか?
山内泰ここで求められるのは、幸福や富を「便益」ではなく「不便益」に見い出すことへの転換です。世の中に不便なことがあると工夫が生じます。それが自己の感性や知性に新たな可能性を開いていくわけです。その可能性の基礎となるのは共同体を貫く文化的な価値意識です。たとえばIT革命がヒッピー文化、すなわち(優れて西洋的な価値である)自由と民主主義に立脚していたように、イノベーションはそれぞれの文化的伝統からその価値の核心を抽出するかたちで生じるのです。この意味でイノベーションは、人生において何を価値とするかの倫理の問いから切り離すことはできません。
その点で日本は、明治維新とアジア太平洋戦争の敗戦によって伝統から切り離され、文化的な根なし草となっています。その結果、日本のみならず東アジアの国々は効率化・精緻化にのみ技術革新の成果指標を求めるばかりで、いかなる文化基盤を頼りに何を実現しようとするのか、いかなるイノベーションを内発的に起こしうるのかが見えなくなっています。
古賀徹イノベーションの基盤としての日本の美学
価値観のアップデートでは、言葉による啓蒙ではなく、暮らしの実相に関わるサービスやテクノロジーのイノベーションこそ重要だという話は、これからのビジネスチャンスの話でもありますね。一方で、私たちは何をよすがとして、イノベーションの基盤を模索できるでしょうか?
山内泰この問いを考える上で、資源利用がままならなかったにも関わらず、快楽への感受性を研ぎ澄ました前近代の日本文化に参照先があると考えています。とくに注目するのは、世阿弥の言う「幽玄」を本質とする「花」のあり方です。人間における根本問題に「退屈」があり、人は退屈から抜け出すべく資源消費によって肯定的な何かを構築し、そこに快を実現しようとする。これに対して世阿弥は、萎れていく花の姿に風情が現れるとします。そこでは、耳目を引きやすい「時期の花」とは異なる、移りゆきにおける花に快が見い出されています。
これは新しい商品を手に入れたときに瞬間的に感じる快ではなく、むしろ商品が古びていくときに実感しうる価値のありかたといえるでしょう。こうした「花」のあり方は、有名な藤原定家の和歌(新古今和歌集)にも見い出されます。花も紅葉もない、港のさびれた小屋、秋の夕暮れにこそ、「花」の本質、つまり失われゆくものへの独特の風情を見い出すのです。
古賀徹「幽玄な花」の商品価値
幽玄を感じる感性は、今の日本人にとって全く理解できないものではなく、十分に納得できるものです。
山内泰まさにそこに私たちが依拠すべき価値があります。一方で、こうした「花」のありかたが、現状では経済的価値としてまだ積極的に表現されておらず、商品価値を持っていないことが大きな課題です。
そもそも当時、世阿弥の能は第一級の商品でもありました。伝統文化として祭り上げるのではなく、幽玄な花の商品価値が何だったのか、そこを捉えることが大切です。『風姿花伝』などの中世の物言いは商品の質に関係するヒントに満ちています。「不便益」に見えるモノやコトのうちに豊かな時間と充実を見い出す感性の錬磨、その感受性の開発と充足にこそ、持続可能なビジネスの可能性が残されていると思います。
これまで資源利用に有利な立場にあった人々が、浪費的な資源利用から切り離された快を探求し、かつ、それによって生まれる余剰資源や汚染可能性を、弱い立場にある人々の基本的自由の保障へと振り向ける、そうした資源利用の大転換をなしうるかどうかが、人類が人間らしい姿で生き残れるかどうかを決めるのだと思われます。SDGsとは結局のところそういうことを求めているのです。
古賀徹(2022年3月25日オンラインにて 聞き手:山内 泰/大牟田未来共創センター 理事)