「ビジネスとエコロジー」そして「人間と自然」の関係を考えるうえで、「環境を大事にする」ことは当然のように見えます。でも一方では、それが建前化している現実もあります。環境問題はなぜアプローチが難しいのでしょうか。哲学者の古賀さんをゲストに、私たちの思考と感性をアップデートするヒントを探ります。
規範と価値観、双方のアップデートが必要
古賀さんは、環境をめぐる「価値観」をアップデートする話の前に、そもそも資源利用(環境破壊)を人間が止められない理由を直視する必要があると言います。その点から、お話いただけますか?
山内泰環境に対する人間のスタンスを問う学問に環境倫理があります。これは、ルールを設定する規範倫理学と、人生の価値や心の問題を考える徳倫理学に大別されます。SDGsのように国際的な共生の規範を追求するのは規範倫理学、価値観のアップデートを考えるのは徳倫理学の仕事といえるでしょう。
ポイントは、どちらか片方ではなく、この双方が車の両輪のように必要だということです。この点をまず押さえないと、「価値観が変われば大丈夫」という話になりかねません。しかし事態はもっと深刻なのです。
古賀徹環境破壊が止まらない理由
正直者が馬鹿を見る「共有地の悲劇」と「幾何級数的」に増大する環境破壊要因
資源利用が持続可能でないことは今に分かったことではなく、1972年の『成長の限界』(ローマクラブ)が鋭く指摘したことでした。でも、分かっていたのに止められていない。環境問題を回避できない根本的な理由は、どういうところにあるのでしょう?
山内泰環境破壊を回避できない理由として、「共有地の悲劇」と「幾何級数的成長」という2つの概念があります。それぞれに手ごわいものです。
「共有地の悲劇」とは、地球環境など、複数人が共有する資源を独立した各個人がそれぞれ利用する場合に、その個人にとって、ある資源の利用によって得られる自己の利益がその資源利用によって被る自己の損害を常に上回ってしまうという事態を指すものです。共有地の環境をおもんばかって資源利用を控えたとしても、別の誰かがその分を利用するだけなので、いわゆる「正直者が馬鹿を見る」状態となります。自分が馬鹿を見るくらいなら、最終的に破滅すると分かっていても資源利用を続けざるを得ない。このロジックによって、資源利用(環境破壊)に歯止めをかけることが困難になっています。
一方「幾何級数的成長」で問題なのは、資源利用(環境破壊)の規模は幾何級数的に増大するのに、その資源利用を補償する要素はそれほど増大しないということです。代替技術や代替エネルギー、リサイクル、汚染防止といった環境保護技術がどれほど進展しようとも、それは資源利用の拡大スピードに追い付きません。破壊要因と補償要因の「増え方」がまったく違うので、資源利用の幾何級数的成長を抑制することなく代替手段で環境問題を切り抜けることは不可能なのです。
こうした環境問題の根本要因に対処するには、やはり資源利用や汚染に関する国際的な総量規制が不可欠です。1つの国だけで規制しても別の国で資源が使われるだけなので、国際協調も必要です。人々の暮らし方や価値観にたんに警鐘を鳴らすだけではなく、実効性がある規制をそれぞれのメンバーに強制していく必要があります。
古賀徹「救命ボートの倫理」のジレンマ
総量的規制と国際協調が必要不可欠だという話は「もっとも」なのですが、簡単に建前化してしまい、上手くいかない現実もあります。その難しさの理由はどこにあるのでしょうか?
山内泰総量的・国際的規制は、実際には、現状の人々の基本的価値観、つまり暮らしの「豊かさ」や基本的人権に抵触します。というのも、それらは限られた資源や汚染可能性の枠内に、人々の暮らしを押し留めようとするものでもあるからです。この規制の直撃を受けるのは社会的に弱い立場にいる人たちです。
この資源分配の問題を「救命ボートの倫理」として鋭く描き出したのが、『サバイバル・ストラテジー』(1983年)の著者ガレット・ハーディンでした。ハーディンによれば、地球環境という巨大な船が沈むときの救命ボートは、乗客全員分ではなく一定数の特権者に限定されるというのです。そこでは、ボートの席を巡る闘争が起こり、席を確保した特権者が船に這い上がってくる人々を拒むことこそ「倫理的」だと主張される。容易に承服しがたい「倫理」ですが、しかし反駁はなかなか難しい。こうした難問が、総量的・国際的規制には潜んでいるのです。このように考えてみると、国連SDGsの「誰一人取り残さない」というスローガンには深い意味があることが分かります。
古賀徹ジレンマを抜け出す価値観のアップデート
自己開発の喜びに価値を見い出す
総量的・国際的規制だけだと「救命ボートの倫理」に陥ってしまう。このジレンマから抜け出す必要があります。どのような道があるでしょうか?
山内泰この局面においてはじめて、価値観のアップデート(徳倫理学)が役割を果たすことができるのです。総量的な規制の中で我慢するのではなく、むしろそのうちに幸福や富を積極的に実現する教育的・自己開発的アプローチですね。
問題は、幸福や富を実現するには資源利用による環境負荷が不可避という従来の快楽(価値)の在り方にあります。だから価値観のアップデートは、例えば「資源消費の少ない有意義な時間消費とは何か」、「いかに飛行機に乗らずに楽しむか」を問うものとなるでしょう。女性に対する教育やエンパワーメントが人口爆発への有効な手段になりうるように、能力や可能性をみずから見い出していく自己教育がその鍵となるわけです。
古賀徹