公と共と私たち
祝祭の非日常性が公共性を自分事に変えていく (3/3)
1 2 3

世界を新しく始める力-アクションを育む

世界の別のつながりに気づく可能性

すると、石田さんが仰る公共性の可能性とは、今まで私的な存在と見なされた人たちが公共空間に出ることで、全く別様の公共性が開かれるということですね。

山内泰

現代的な文脈でアーレントの可能性を広げようという解釈はこれまでにも行われてきました。典型的には、フェミニズムやケアの問題で、アーレント自身はそうした話はあまりしなかったんですけど、そういう文脈でアーレントを再解釈する試みは、例えば岡野八代先生などによって行われてきました。これまでの研究を踏まえた上で私が強調したいのは、環境問題でも障がい者問題でもケアでもフェミニズムでも何でもそうですが、こうした色々な「あれも大事、これも大事」という話がたくさんある中で、それが「今の私」にとって何が重要と気付くかということです。

例えばアーレントはアクション(action)とビヘイビア(behavior)の区別をしています。ビヘイビアはそのまま訳すと「行動」です。アクションは「活動」や「行為」と訳されます、ビヘイビアはルーチンワークで、色々な手続きに則って官僚が政治を動かすために重要ですが、それはアーレントによれば政治ではありません。アーレントにとってアクションは「始まり・ビギニング」で、ルーチンワークで行われてきたものをぶっつり止めさせることや、別のものに変えさせることに繋がっています。だから異議申し立てする声を上げたり、何か訴えかけて一緒になって共にする人たちが増えていくことを、アクションと捉えることができるのです。

その中で自分にとって関係ないと思っていたものが、実はすごく重要で関係があるかもしれない。例えば今SDGsのことも大学で教えていますが、SDGsの17の目標とゴールも複雑にあって、全部が重要なんですね。SDGsはどういう入口でも良いというのがミソであって、何か手段ややり方を厳格に決めてはいません。アーレント風に言えば「共通世界」の中で、地域やコミュニティごとに日本の中でも抱えているものは違います。もちろん差別や貧困、温暖化・気候変動がない社会の方が望ましいが、ものすごく大きな目標を掲げられて、あれもこれもしないといけないとなるとジレンマがありすぎます。ですがSDGsでは、例えば地球環境問題でも、そのゴールの一つはあなたが普段やっていることと繋がっていますよ、と焦点を当てて伝えることができて、「共通世界」と関係ないと思っていたものと実は繋がる可能性が見えてきます。なので、そうしたものにメディアに携わる人や研究者も含めて情報発信をしていくと、一般の人も関心を持っていけるのではないでしょうか。

だから物語と祝祭は別々のものではなくて、繋がっています。もちろん別様に、全くなかったものにアレンジされていく可能性もあるけれど、物語が残されていくことで、別の祝祭に結びついていく可能性もあるということもできますね。

石田雅樹

実りある公共性とメディアの役割

SDGsの他にも、共通世界に自分事を見出せる公共性の可能性はあるでしょうか?言い換えると、パブリック・公共的なことに対する個人の実感を社会の中でどう作るか、という課題ですね。

山内泰

そうですね。自分の日々の生活でプライベートなもの・パブリックと繋がってないようなものも、実は大きく公共的なものに開かれる可能性を持つ、ということです。アーレントを厳密に解釈すると、そう言えない面があって、子供のことや労働・お金のことはプライベートなもので、パブリックなものではないと言われたりもします。しかしそれでは、「公共性」の議論が何もできなくなってしまいます。ですので、「公共」を抽象的で高尚なものではなく、どうやって実感を持って制度や仕組みに繋げていくかが重要だと思います。例えば、兵庫県明石市の市長が子育て対策で10万円を給付するときも、形式的に配布するのではなく、実際に養育しているか確認して配るようにしていましたね。そうした形で、各自治体・コミュニティによってそれぞれ異なる問題に対して、実感を持って対応していくことは、とても説得力があるといえるでしょう。

その一方で、こうした活動についてメディアがしっかり報道することも、先ほどの物語や共通世界の持続にも関係してきます。「実は重要な決定に対してこういうことが行われた」「いや、それは違う」という形で、記録・取材をした上で情報発信して残すことで、我々は知ることができるし、後の時代に関係してくる重要な問題も残されていきます。教育も含めて環境や財政などもそうですね。

アメリカの法学者キャス・サンスティーンは『インターネットは民主主義の敵か』(2001年)で、インターネットが普及していき人々が情報を取捨選択することで、より賢明な政治的判断を行えるようになると当初は思われていたけれども実はそうはならない、と予言していました。今ではTwitterやYouTubeの中の同質のエコーチェンバーで、同じような関心を持つ人にしか接する機会がなくて、結局は社会や政治に対する偏った見方になることを誰もが理解しています。インターネットの中のキーワードで選んでいると、自分の立ち位置が分かりにくくなってしまうこともあるでしょう。だから別の視点も必要で、複数のメディアの比較すなわちメディアリテラシーが必要です。

メディアリテラシーとしてはやはり新聞の読み比べなどから始めるのが有効だと思います。ネットで何でも知ることができるようになって、新聞は以前ほどあまり読まれなくなっていますが、新聞には良くも悪くも保守とリベラルがあって、それぞれに情報のパッケージの仕方があることを知るのは重要だと思います。実は現行の教科書でも小学校から新聞の読み比べを行う授業があります。ですので私の授業では、毎年新聞の読み比べをレポートの課題として出しています。宮城教育大学は教員養成大学で、将来学校の先生を志望する学生が多いですが、その先生の卵たちがメディアリテラシーを身につける取り組みを行っています。こうしたメディアと公共性については、アーレントだけでは十分に論じることができないので、それとは別の議論で補う必要があると思います。

石田雅樹

その意味で石田さんが仰った公共性の可能性は両義的ですね。私的なものは公共性のきっかけになる可能性だけど、どういう情報環境にいるかによって選ばれるものも規定されてしまう。だからメディアリテラシーや情報の制度設計が重要になってくるんですね。

アーレントの議論では、祝祭の公共性の中でヘイトスピーチやポリティカル・コレクト、その他様々な意見が現れうるのが祝祭の公共性でした。だからこそ、公共性を見出す個人の側がメディアリテラシーを持って色々な視点や立場を知って社会に開かれている必要があるのですね。これから制度や具体的な実践でアプローチできる領域でもあると思います。

山内泰

公共性を変えていく場-祝祭の空間

そうですね。もう一つ付け加えると、私は公共空間の中のファシズムやヘイトスピーチを擁護するわけではなく、それ自体が変質しうるのではないかと考えてもいます。楽観的に見えるかもしれませんが、例えば、独裁的な王様を偉大だと祝う祝祭が、王を下ろすイベントに代わっていくこともあります。ルーマニアでの独裁者チャウシェスク元大統領が失脚した時がそうでした。それはコントロールできなくて、誰かが「王様は裸だ」と言い出したら、なかったことにはできないんですね。リアルタイムで大勢の人がいる場ですから。だからそうした中にこそ、大勢の人の考えを変えるような言葉を「始まり」として一つ投げ入れることに意味があるのではないでしょうか。

今も新型コロナが流行していて、色々なイベントが中止されていますが、集える場がなくなっていくこと自体が実は異様なんですね。最初にお話した全体主義の異様さとは、人々が個別的なものに全部切り離されていって、いくらでも政治的にコントロールできることです。そもそも疑問を持つような人間を作らないで、社会や政治に問題があると考えないようにさせて、人々の繋がりを分断していくんです。そうして一つのルーチンワークで動くシステムを作り上げていき、世界で何が起きても自分には関係無いと思うような社会にしていきました。

でもそれが古代ギリシャから含めた政治のあり方として異様だったとアーレントは気付いた。だから、徹底してそうではない政治のあり方を考えたのだと思います。そしてそれは、祝祭というある種の非日常性の中で、一人ひとりが世界との繋がりを気づく可能性を持った空間だったのではないでしょうか。

石田雅樹

祝祭的な現れの空間を誰もコントロールできない中で、王様であっても一人が「王様は裸だ」と言うことからひっくり返る危険性もある。でもだからこそ、その祝祭はこれまでの公共のあり方を誰もがドラスティックに変えていける可能性も持っているということですね。本日はありがとうございました。

山内泰

(2022年1月14日オンラインにて収録)

1 2 3

石田雅樹

宮城教育大学教育学部 教授
ハンナ・アレントなど20世紀の政治哲学を研究しています。近年は政治と教育の問題、主権者教育の問題にも取り組んでいます。

山内泰

一般社団法人大牟田未来共創センター理事
ドネルモ代表理事
株式会社ふくしごと取締役
東京大学先端科学技術研究センター特任研究員