公と共と私たち
祝祭の非日常性が公共性を自分事に変えていく (1/3)
Vol.3 - 公と共と私たち

石田雅樹

宮城教育大学教育学部 教授
ハンナ・アレントなど20世紀の政治哲学を研究しています。近年は政治と教育の問題、主権者教育の問題にも取り組んでいます。

山内泰

一般社団法人大牟田未来共創センター理事
ドネルモ代表理事
株式会社ふくしごと取締役
東京大学先端科学技術研究センター特任研究員

「公(おおやけ)」や「公共性」という言葉を使う時、それがどこか自分とは直接関係なく、お上や世間によって決定される領域のように感じることはありませんか? 宮城教育大学で政治学を教えている石田雅樹さんは20世紀の政治哲学者ハンナ・アーレントを研究する中で、そうした他人事の「公共性」とは違う見方を提示しています。つまり「公共性」は自分とは無縁のよそよそしいものではなく、むしろ自分の私的な関心事とつながることで生き生きしたものとなり、リアルな次元を獲得する可能性を提示しています。今回は、「公共性」が私的な実感や気づきによって支えられ、「自分事」として捉えられる可能性を、石田さんと共に考えていきたいと思います。

祝祭の公共性とその「危うさ」

政治参加・公共性に対するアーレントの矛盾

石田さんは著書『公共性への冒険』(勁草書房、2008年)の中で、「祝祭」という概念を通してアーレントの公共性を興味深く論じられていますね。まずそれをご紹介頂けますか?

山内泰

拙著『公共性への冒険』はサブタイトルを「ハンナ・アーレントと”祝祭”の政治学」としており、アーレントの政治思想を「祝祭」というキーワードで読み解こうとしたものです。そこでは、立教大学の川崎修先生が提起した問題、すなわちアーレントの「危うさ」という問題提起に対して、自分なりに回答したかったことを書いています。その問題提起とは、アーレントが一方で全体主義・ナチズム的な政治参加の在り方、大衆運動としての政治的関与を厳しく批判しながら、他方では古代ギリシャの政治を例に、政治参加を強く促すようなメッセージを送っていることです。

まずアーレントはユダヤ人で、ドイツの哲学者マルティン・ハイデガーの教えを受け、実存哲学の視点からアウグスティヌスを新たな視点で読み解き学位を修め、順当にいけばドイツの中でアカデミックなポストを見つけたはずでした。しかし、ナチスに追われてアメリカへ亡命を余儀なくされ、ナチズムやという全体主義に向き合わざるを得ませんでした。その分析として『全体主義の起源』(1951)という本を書いて、アメリカで高く評価されることになります。アーレントの見た世界では、それまで政治に無関心だった人たちが、一気に大衆運動の形で政治にコミットして、「ハイル・ヒトラー!」と言うようになりました。だから政治にコミットすることの危険性を、アーレントは肌で知っていました。アメリカ亡命後においても反共産主義運動のマッカーシズムなどが出てきて、全体主義の兆候だと言ったりもしています。それにもかかわらずアーレントは、『人間の条件』(1958)では古代ギリシャのポリスを政治の原型として礼賛し、「政治にコミットしないといけない、政治参加に無関心ではいけない」というメッセージを送りました。こうしたアーレントの矛盾を、川崎先生は1980年代頃に既に問題として指摘されたのです。

石田雅樹

政治参加・公共性に対するアーレントの矛盾

私は川崎先生の問題提起を踏まえ、そのアーレントの危うさを消し去るのではなく、むしろその危うさにこそ現代の公共性を読み解く手がかりがあると考えました。そして、アーレントが語る公共空間、すなわち人々が対面(フェイス・トゥ・フェイス)で集い、語り合う場とされる「現れの空間(space of appearance)」を「祝祭」という言葉で表現しました。

「現れの空間」とは日本語に翻訳しにくいですが、そこでイメージされていること、つまり集うこと、語り合うこと自体が楽しみであるというイメージからすると、「祝祭」というイメージがぴったりのような気がします。どういう町にも祝祭・お祭り的なものはありますね。何を祭るかは違うけれども、そこに大勢の人が集まります。その場にいる人が一つの関心(インタレスト)を持っていて、共に関係性を構築する形で集まってくる。そうしたものは、なかなか公的なものと捉えられてこなかったのです。そこでアーレントの話を「祝祭」という言葉で捉え返せると思って議論してみました。しかし、なかなかご理解いただけなくて「よくわからん」という書評をもらったりするので、よろしければ御一読頂きAmazonなどでご評価いただければと思います(笑)

アーレントの公共性の議論をリアルな政治と結びつける取り組みとしては、例えば、市民運動における政治参加の文脈で論じられてきました。こうした理解は間違いではないと思いますが、市民運動から外れる大衆運動、例えばファシズムに連なる政治運動をアーレントの枠組みから排除する解釈については、私は懐疑的です。なぜかというと、私の理解では、いわゆる危ない政治・ファシズムや昨今のヘイトスピーチもアーレント的な政治的公共性に入れないと話がしっくり来ないんです。アーレントはそうした矛盾をどのように理解していくかについて、かなり面白い議論をしていると思います。例えば戦争に反対する人たちの集会はアーレント的だけれども、戦争に賛成する人たちの集会はそうではないと言ってしまうと、それがよく分からなくなるのです。

石田雅樹

例えば良いデモクラシーと悪いデモクラシーがあって、良いデモクラシーだけを擁護するような話にアーレントの議論は留まっていない。アーレントは一方で全体主義やナチスの問題の当事者でその危険性を身に染みていた人で、でも同時にヘイトスピーチのようにファシズムを容認・擁護しかねない議論を展開している。それは何故か。これに応えて石田さんは、公共圏をそうした危険を全部含みこんだものと考えた上で、それとどう向き合うかをアーレントは考えていた、と問題設定するのですね。

山内泰

はい。そういったものも政治のあり方や公共性のあり方と認めないと理解できないということです。それは「良いデモクラシーと悪いデモクラシーの境界を誰が引くのか」ということでもあります。

石田雅樹

言葉による他者への現れと、その危険性

その時に問題になるのがアーレントが語る「言葉による説得」の重要さと危険性です。つまり、何によって我々はその人の言葉を信じて、行動するかという問題です。例えば選挙でもっともらしい「公約」を掲げる政治家や官僚的な答弁で説得される人はどれぐらいいるでしょうか。それと対照的に、人を動かすメッセージを伝える人は社会で一定数存在しますし、それこそYouTubeの映像やライブの音楽での詩的な歌詞によって説得され動かされるということもあります。古代ギリシャの昔から「弁論術」が政治の技術として重視され、いかに言葉によって相手を説得するのが難しく、それは聴衆や色々なテーマによって伝え方を変えていかないといけないことはアリストテレスも語っているのですが、それに対する意識の低さが日本の政治を規定していますね。

ただその一方で「言葉による説得」はとても危ういものです。例えばヒトラーはすごく上手くて、聴衆に届く言葉を持っていました。今だとトランプ前大統領がそれをやっていて、人々の言葉に刺さるメッセージを送り続けているので、大統領が終わった後もたくさんの支持者がいます。でも例えばバラク・オバマ元大統領も大統領就任演説ですごく評価されて、泣いた聴衆もたくさんいました。そこには、いかにアメリカの分断を統合していくかについて、たくさん支持をした人がいました。「言葉による説得」は、我々日本人からすると空虚で、どこにそんな政治があるのかと思われがちです。だけど実際に「言葉による説得」がリアルな政治を動かすことが身に染みている欧米圏の政治関係者だと、重要な演説ではライターがいて、この場ではこういう言葉を使う・使わないという話をして、演説の言葉を練り上げていきます。それは、スピーチで渡された資料を読み間違えたり、ページを読み飛ばしてしまうどこかの国の首相とは雲泥の差です。

アーレントが語る「現れ」や「複数性」という言葉についても、こうした公共空間での振る舞いという点で理解できると思います。つまり、公共空間での「現れ」とは「本当の自分」を実現するような場ではなく、むしろ「私」と「あなた」という異質な他者が「言葉」によってコミュニケーション可能になるような場を意味している、と私は思います。「私はこの世界の中で取り換え可能ではない唯一の存在」という考えは、中二病的な見方として冷笑されがちですが、それ自体アーレントの出自である実存哲学と親和的であり、この世界で特殊な自分を誰か理解してくれるのか、また自分の訴えが果たして世界に届けられるのかという問いは、政治におけるコミュニケーションの根幹にある重要な問題です。先ほどから演説での詩的表現の話を挙げてきましたが、この「言葉」が届いた瞬間がアーレントの言う「現れ」であり、政治的な空間ではないかと考え「祝祭」という言葉を選びました。

石田雅樹

自分の現れはアクションとして、それを受け取る他人に委ねられる

色々な人たちの中に自分がいて、言葉を届けたり訴えを聞くことそのものが、リアリティの大事な基盤になっているわけですね。それに関連して、アーレントはその著作『人間の条件』の中でも「何者かwho」が大事だという話をしながら、活動している時に自分が何者なのか、その人には分からないと話しています。自分が何者か分からないという話と、自分が他の人たちと共にいるという話は、どのように関わっているのでしょうか。

山内泰

それに関しては、アーレントが語る「アクション(action活動)」というもので説明できます。例えば言葉を話しても、自分の思うとおりに相手に伝わらない可能性や、何十時間・何百時間かけても相手を説得できないことがあり得ます。自分が人間的に信頼できるという演出をどれだけ積み重ねても、それが相手に伝わらないこともあります。そうしたアクションは制作とは違って、失敗したからといってやり直しできないものです。

だから、自分が「何者か」を自分が知り得ないことは、自分の思ったことが本当に相手に伝わっているか分かり得ないということです。それだけでなく、活字であれ、その場の話であれ、誤解されることもあり得ます。ですが、その誤解・ミスリーディングされることも含めて、自分はアクションとして引き受けなければならないんです。

「不可逆性」という言葉もアクションの説明の中で出てきますが、言った言葉は取り消せなくて自分が何者なのかを自分で完璧にコントロールできないということです。作品が思い通りに受け取られないのも、この不可逆性において話を戻したり、無かったことにできないのと同じ形です。「非制約性(boundlessness)という言葉もあって、例えばインターネットの空間では、受け手を特定の誰かにコントロールできても、それが記録されて拡散されることもあります。リアリティの場でも同じような問題があり、解釈の多様性にも関係しますが、その場にいる人だけに対してメッセージを話すだけでは終わりません。それを聞いた人が別の人に「あの人はそういうことを言っていた」と話します。そのようにして、メディアの中で話が別様に展開していく可能性もあるでしょう。そこがアクションの難しさでもあります。

石田雅樹
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石田雅樹

宮城教育大学教育学部 教授
ハンナ・アレントなど20世紀の政治哲学を研究しています。近年は政治と教育の問題、主権者教育の問題にも取り組んでいます。

山内泰

一般社団法人大牟田未来共創センター理事
ドネルモ代表理事
株式会社ふくしごと取締役
東京大学先端科学技術研究センター特任研究員